大阪地検の資料改ざん事件に思う

松本 徹三

今回の事件は、麻薬取締官の中に麻薬常習者がいたというようなもので、まさに驚天動地、「もう何を信じていいのか分からない」という当惑を多くの人に与えるものでした。しかし、考えてみれば、今回の事件は起こるべくして起こったものだともいえます。むしろ、今後のことを考える上で大きな一石を投じてくれた点を、奇禍とすべきでしょう。


人間の全ての判断は、「事実」と「論理」をベースとしますが、最後は「価値観」と「戦略」によってなされます。この「価値観」や「戦略」に対する思い入れが強く、且つ、当事者が功を焦る場合は、最初の「事実」の検証を怠る、或いは、極端な場合、今回のように「捏造」までするという事態が生じるのでしょう。

私は、通常アゴラで議論する場合も、まずは「事実」の認識を共通化し、その上で「論理」を展開することが基本であり、ここで間違いを削ぎ落とした上で、最後の「価値観」と「戦略」のところに焦点を当てて、大いに議論すべきと主張しています。つまり、科学的な問題については、大体において一つの正解しかありませんから、ここで見当外れな議論をするのはやめて、肝腎の「戦略」の議論をしましょうという事です。

しかし、現実を見ると、どんな人でも、最初から「結論」を持っている場合が多く、この結論に結びつけるのに役に立つような話をたまたま聞くと、よく科学的な検証もせずに、それに飛びついてしまう傾向があります。本来は、「結論を得る為に事実を検証し、論理を展開すべき」、つまり、「結論はこの結果次第であるべき」なのに、現実には、「結論が先にあって、事実や論理はこれを正当化する為の道具として使う」というケースが多いのです。

従って、既にある「結論」の為に有利と思われる「事実」が見つかると、鬼の首を取ったように目を輝かせ、逆に不利なものが見つかると、見て見ぬふりをするか、場合によっては、押さえ込んでしまうのです。これは、日常、会社の仕事などをしている時でも、多く人が体験していることでしょうから、検察庁の人達がそのような誘惑に駆られたとしても、理解は出来ます。しかし、「理解が出来る」という事は、勿論、「それでよい」という事を意味しません。

検察の仕事では、全てを「法」と「証拠」によって処理することが求められています。「法」は「論理」の一形態であり、「証拠」は「事実」を明かし示すものですから、先に述べた「事実と論理を全てのベースに」という私の主張と、ここのところは、本質的に異なるものではないと思います。

但し、「国策」についての議論のような場合は、その上に乗る「価値観」と「戦略論」の方が重要なのであり、それがあってこそ初めて議論の意味があるのですが、検察の仕事の場合は、「価値観」や「戦略論」が求められているわけではありませんから、「ベースの部分」に愚直に徹し、それ以上には進むべきではありません。

こうなると、「法」の解釈を変えたり、「法」そのものの存在を隠蔽したりすることはほぼ不可能ですから、大阪地検の担当検事も、今回のように「証拠」の方を工作したわけです。この点は、日常の議論でも同じの様で、論理を捻じ曲げることは難しいので、多くの人が、事実関係を隠蔽したり、都合のよい事実だけを取り出して誇大に宣伝したりします。

(因みに、会社の仕事の場合でも、一つのプロジェクトの推進に情熱を傾けている担当者は、タイミングを逸する事なくトップの承認を得る為に、時折この誘惑に駆られるようです。従って、最終決断をするトップは、この事をよく理解し、心を鬼にして事実関係を厳格に問い質す事が必要です。

コンピューターの仕事も、アルゴリズム(論理)とデータ(事実)をベースにして行われます。コンピューターの分析結果というものは、如何にも説得性があるように思えますが、実際にはデータを少し変えると、全く異なった結果が出てきます。事業計画等は、スプレッドシートの一項目の数字を少し変えただけで、駄目な事業が突然バラ色の事業に見えてしまうので、注意が必要です。)

さて、ここで少し角度を変えて考えて見ましょう。

「政治と金」の問題を含め、最近毎日のように摘発されている「不祥事」は、おおむね、「目指す結果が正しければ、その為の手段として、法に反することや、真実を捻じ曲げることは多少あってもよい」という判断(信念、或いは価値観)がベースになっています。「表」と「裏」の使い分けや、「本音」と「建前」の使い分けは、多くの日本人にとって日常茶飯事になっており、これについて罪の意識は殆どありません。

法に反することは、どんな小さいことであっても、歴然とした犯罪行為ですから、場合によっては事が大きくなりますが、摘発された人は、表向きは神妙にしていても、陰では「誰でもやっていることなんだよなァ」と嘯いていることでしょう。たまたま「一罰百戒」の対象となったことを単なる不運と考え、反省するところは殆どないでしょう。

しかし、法の番人である検察の中にも、まさかこれに似たような考えを持っている人がいるとは、私も、想像さえしていませんでした。

検察庁も、限られた人数で数多くの事件を扱わなければならないのですから、「プライオリティーをつけて人的資源を集中させること」が当然必要になるでしょう。そして、その判断のベースに、検察庁としての「価値観」と「戦略」があることも、ある程度止むを得ないのかもしれません。しかし、今回の事件は、はからずも、この問題点をも露呈しました。

かつてのホリエモン逮捕は、「『金が全て』の風潮を作り出している若手ベンチャー経営者」に対する一般庶民の漠然たる疑念に応え、「『勝ち組』と『負け組』の間に極端な差を作る社会の仕組み」にも一石を投じる事を、明らかに意識していたように思えますし、今回の元厚生労働省局長の事件では、庶民が何となく信じている「高級官僚悪玉論」の一例を手っ取り早く示したかったのでしょう。

国民は、検察庁に対し、「あらゆる不正を見逃さず、厳正に摘発すること」を期待しています。しかし、何にプライオリティーをつけるかという「価値観」や「戦略」の判断を委ねているわけではありません。検察庁の人達が、「国民を代表する最大の権力構造」として自分達を意識し、安直に「国民の喝采」を得ようとし始めているとすれば、それは危険な兆候と言わざるを得ません。

この事に加え、今回の事件は、検察庁に限らず、多くの大組織に存在する「根源的な三つの問題」をも露呈しました。一つは「身内の馴れ合い、庇い合い」であり、もう一つは「無謬性志向」、最後は「実績至上主義の昇進(人事考課)のメカニズム」です。この三つは、共に、「驕り」と「惰性」、それに「組織防衛本能」から来ているかのように思えます。

「無謬性」の問題は「驕り」と表裏するものですが、検察庁の場合は特に深刻です。昨日の日経の記事によると、「検察庁が取り上げた案件の有罪率は、これまでの実績で約99%」との事ですが、これは、世の中の現実から考えると異常に高い数値です。「無謬性志向」は「起訴するからには有罪にしなければならない」というプレッシャーを生みますが、だからと言って「起訴」に慎重になると実績が上がらないので、今回のような不正までも生み出してしまうのでしょう。

それでは、今すぐにすべきことは何でしょうか? 今回のことを奇禍として、検察庁全体の「驕り」と「組織防衛本能」に強く反省を求め、もう一度「正義」の意味を自らに問い直してもらう事でしょう。その為には、人事の刷新も不可避でしょう。直接責任があるわけでもない人に累が及ぶのはフェアではないかもしれませんが、その位しないと、組織全体に緊張感が生まれないからです。

内部的には、「人事考課基準の見直し」、「監査システムの構築」、そして、何よりも、「若手が自由に色々な事についての疑問を語り、意見を具申することが出来るようなシステムと雰囲気作り」が必要でしょう。今回の事件での唯一の救いは「内部告発」が機能した事でした。

外部機関によるチェックも必要です。現在は「立法」「行政」「司法」の三権分立の上に、「マスコミ」と「検察」という二つの大きな権力存在していると言われていますが、共に「行政」の支配を受けない事がその「レゾン・デ-トル(存在意義)」の核心ですから、「行政」に代わる何らかのチェック機構がなければなりません。

私は、「マスコミ」については「インターネット」に、「検察」については「検察審査会」に期待しています。但し、「検察審査会」だけでは力不足ですから、何らかの「調査能力を持った下部組織」が必要と考えます。