無縁社会は不幸か - 『人はひとりで死ぬ』

2011年01月07日 12:02

人はひとりで死ぬ―「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書 338)人はひとりで死ぬ―「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書 338)
著者:島田 裕巳
日本放送出版協会(2011-01-06)
販売元:Amazon.co.jp
★★★★☆


昨年、NHKの「無縁社会」というシリーズが大きな反響を呼んだ。その後、100歳以上のはずの老人が行方不明になっている事件が多発し、老人が社会とのつながりを失って「無縁」になることが社会問題となった。こういう話は日本が本来「有縁社会」で、その古きよき日本が失われていくという感傷的なストーリーになっている。

しかし著者も指摘するように、無縁というのは中世では「自由」の意味だった。縁切り寺に飛び込めば公権力の追及も逃れることができ、楽市楽座のように領主が公認した場合もあり、堺のように一つの都市が領主から独立した場合もあった。日本の高度成長を支えたのも、人々の「無縁化」を求めるエネルギーだった。そのころのフォークソングには、地方から東京に出て行く恋人をテーマにした歌が多い。

恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
――「木綿のハンカチーフ」

このように高度成長は人々にとっては「故郷喪失」ではなく、希望を求めるリスクテイクだった。そして都会に集団就職した若者は、会社という共同体で「有縁化」されて企業戦士になった。彼らは文字通り「金の卵」だったので、企業は彼らを社宅や福利厚生施設や手厚い年金制度で囲い込んだ。彼らを低賃金で働かせるためには、年齢さえ上がれば誰でも昇進して高給がもらえるという幻想を植え付ける年功序列が必要だった。

それでも都市のブルーカラーや自営業者の職は不安定だった。こうした階層を「有縁化」したのが新宗教である。小さな工場や商店で働く人は、会社のようなコミュニティをもてないため、こうした宗教の定期的な集会に集まり、冠婚葬祭まで教団に面倒をみてもらうことで、宗教的コミュニティの一員となった。これは共産党の支持層とも重なっており、欧米の教会と似た役割を果たしている。

しかしサラリーマン社会は、それ自体を破壊する契機を含んでいた。「会社共同体」は個人の自律性が強まると弱体化する。製造業では会社がOJTで社員を教育するしかないが、IT産業では、若者が自分でコーディングを習得できる。こういう専門性を身につけた人々にとっては、終身雇用はかつての村落共同体のように自由を拘束するものでしかない。

サラリーマンは子供に仕事を継承せず、子供は親とまったく別の学校というコミュニティで生活する。家で親と一緒にテレビを見たり電話したりするより、ケータイで友人と会話している。このノマド的なコミュニケーションを「世帯」単位でみることは無意味だ。社会のサラリーマン化によって、家庭という究極の中間集団も崩壊しつつあるのだ。

このように会社や地域や家庭などの有縁ネットワークが弱まると、最後に頼るのは自分しかない。新たなコミュニティができるとしても、それは従来の古いネットワークを延命した先にはない。それはたぶん、ひとりひとりが無縁であることを自覚した上で新たに構築するGesellschaftでしかないのだろう。

そして誰もが、最期はひとりで死ぬ。死ぬときは無縁であり、コミュニティなんて幻想にすぎない。人生が幸福だったかどうかは、死ぬとき「あれをやっておきたかった」と思うか、「やりたいことはやった」と思うかではないだろうか。その意味では、もう朽ち果てるしかない日本型の有縁社会を延命することは、人々を不幸にするだけだと思う。

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池田 信夫
アゴラ研究所所長 青山学院大学非常勤講師 学術博士(慶應義塾大学)

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