人はひとりで死ぬ―「無縁社会」を生きるために (NHK出版新書 338)
著者:島田 裕巳
日本放送出版協会(2011-01-06)
販売元:Amazon.co.jp
★★★★☆
昨年、NHKの「無縁社会」というシリーズが大きな反響を呼んだ。その後、100歳以上のはずの老人が行方不明になっている事件が多発し、老人が社会とのつながりを失って「無縁」になることが社会問題となった。こういう話は日本が本来「有縁社会」で、その古きよき日本が失われていくという感傷的なストーリーになっている。
しかし著者も指摘するように、無縁というのは中世では「自由」の意味だった。縁切り寺に飛び込めば公権力の追及も逃れることができ、楽市楽座のように領主が公認した場合もあり、堺のように一つの都市が領主から独立した場合もあった。日本の高度成長を支えたのも、人々の「無縁化」を求めるエネルギーだった。そのころのフォークソングには、地方から東京に出て行く恋人をテーマにした歌が多い。
恋人よ ぼくは旅立つ
東へと向かう 列車で
はなやいだ街で 君への贈りもの
探す 探すつもりだ
――「木綿のハンカチーフ」
このように高度成長は人々にとっては「故郷喪失」ではなく、希望を求めるリスクテイクだった。そして都会に集団就職した若者は、会社という共同体で「有縁化」されて企業戦士になった。彼らは文字通り「金の卵」だったので、企業は彼らを社宅や福利厚生施設や手厚い年金制度で囲い込んだ。彼らを低賃金で働かせるためには、年齢さえ上がれば誰でも昇進して高給がもらえるという幻想を植え付ける年功序列が必要だった。
それでも都市のブルーカラーや自営業者の職は不安定だった。こうした階層を「有縁化」したのが新宗教である。小さな工場や商店で働く人は、会社のようなコミュニティをもてないため、こうした宗教の定期的な集会に集まり、冠婚葬祭まで教団に面倒をみてもらうことで、宗教的コミュニティの一員となった。これは共産党の支持層とも重なっており、欧米の教会と似た役割を果たしている。
しかしサラリーマン社会は、それ自体を破壊する契機を含んでいた。「会社共同体」は個人の自律性が強まると弱体化する。製造業では会社がOJTで社員を教育するしかないが、IT産業では、若者が自分でコーディングを習得できる。こういう専門性を身につけた人々にとっては、終身雇用はかつての村落共同体のように自由を拘束するものでしかない。
サラリーマンは子供に仕事を継承せず、子供は親とまったく別の学校というコミュニティで生活する。家で親と一緒にテレビを見たり電話したりするより、ケータイで友人と会話している。このノマド的なコミュニケーションを「世帯」単位でみることは無意味だ。社会のサラリーマン化によって、家庭という究極の中間集団も崩壊しつつあるのだ。
このように会社や地域や家庭などの有縁ネットワークが弱まると、最後に頼るのは自分しかない。新たなコミュニティができるとしても、それは従来の古いネットワークを延命した先にはない。それはたぶん、ひとりひとりが無縁であることを自覚した上で新たに構築するGesellschaftでしかないのだろう。
そして誰もが、最期はひとりで死ぬ。死ぬときは無縁であり、コミュニティなんて幻想にすぎない。人生が幸福だったかどうかは、死ぬとき「あれをやっておきたかった」と思うか、「やりたいことはやった」と思うかではないだろうか。その意味では、もう朽ち果てるしかない日本型の有縁社会を延命することは、人々を不幸にするだけだと思う。
コメント
物質の集団は1分子当たりのエネルギーを増大させて行くことで、固体状態から液体状態へ、そして気体状態へと相転移して行きます。
人間の集団も同じように、1人当たりが利用出来るエネルギーが増大して行くことで、身分が固定された”solid state society”からより自由な”liquid state society”へ、そして最終的には”gas state society”へと相転移して行くのでしょう。今はまだ”liquid state society”の状態ですが、このまま文明が発達すればいずれ”gas state society”の段階に到達するでしょう。そのような社会に適応出来ない人々は各相転移の段階で淘汰されてしまうかも知れません。もちろんこの場合の淘汰は社会ダーウィニズムのように他者により選別されるという形で行われるものではありません。社会の相転移に伴う新しい淘汰は、社会の変化に適応出来ず行き場を失い自らの尊厳を保つことが出来なくなった人々が自ら死を選ぶという形で行われるでしょう。
人は無意識のうちに生という不自由を求めるが
縁を求める事も同じ無意識から生じているのかもしれない。
縁も盛衰するが、無くなることもないでしょう。
生は連続的な事象であり死はその運動を止めるが余韻が残る。
余韻は生者の間で波紋のように伝播するがやがて消える。
完全な「孤立」状態でない限り、しばらくの間周りの人間は
死の余韻を味わう事になり、その意味では死は当事者1人の
物ではない。死は最後の縁でもある。
孤独は幸福から一番遠いと思いますよ。
人間孤独だけは耐えられません。
孤独から脱することが出来るなら、自由を放棄する選択など容易いことでしょう。
今までは土台にコミュニティがあったため、安心して自由を選択できただけのことです。
個人の欲望は果てがありません。
コミュニティであれ宗教であれ、歴史であれ自然であれ、自分という個人が大きな流れの中にいることが感じられて初めて、死を受け入れられるような気がします。
社会の60%は、能力の低い単純工です。その60%を如何に生かすかが、社会を安定的に維持するに必要な前提になります。
何らの手当もせずに、その階層を放り出せば、間違いなく彼らは搾取され、疎外されて社会を不安定にしてゆくことでしょう。
無縁であることを自覚して、覚悟できて、自立して生きることが出来るのは、強者だけです。
能力のない若年者や、衰えた中古年者が排除される社会を幸せな社会と呼べるでしょうか。
>最後に頼るのは自分しかない。
それは、何割にとっての死刑宣告ですか?
そして、今の社会での「強者」でも、多数が貧窮し、群れを求める人類の本能から政治が不安定化する中、どれだけ生きられるでしょう。
それ以前に、日本はロシアのように「平均寿命が低下するほどの格差、政治は強権化、だが経済は成長する」ことはできるでしょうか…地下資源もないのに?
古いコミュニティの延命は不可能ということには賛成します。
ですが、多数の無能な人間は見捨てると決断した先にも明るい未来はないでしょう。
「みんながみんなを生かす、最低限は無条件に、現実的に確保する」とはっきり決めた上での自由でなければ、必ず崩れます。
現代日本では、人の死は社会的な事象です。本人にとってコミュニティは幻想かもしれませんが、人知れず消えていくことは出来ず、死体は検死の上社会的に処分されます。現代社会は-GemeinschaftであれGesellschaftであれ-人と社会との関係が保たれていることが前提にもかかわらず、断絶しているケースが出てきたために取り扱い方が混乱している。ただそれだけのことでしょう。
血縁地縁、あるいはイエ・家庭と言ったものが日本の古くからの有縁ネットワークだというのは幻想でしょう。行方知らずなどコミュニティから消滅し正史に記載されない者どもが数多くいるはずです。経済発展と統治網の拡張によって少なくはなっているが皆無ではない。それが偶偶発見された。それだけのことでしょう。
『無縁社会』---何をいまさら
人間は承認されたと感じると幸福感を感じるといいます。
無縁社会で隔絶された個人は、いったい何から承認を感じれば良いのでしょうか。
あるいは、承認欲求を満足するということは、これからは贅沢品となるということでしょうか。
seanjpさん
> 現代日本では、人の死は社会的な事象です。
この文はトートロジーにならざるをえないので違和感があります。書くとすると、社会では人の死は社会的な事象?それも変ですね。それ以外は、私も何を今更と思います。
家庭も縁としては崩壊しているのに別姓は先送りというのはおそらく感傷なんでしょうね。
また、
> これは共産党の支持層とも重なっており
公明党もそんな感じだと思います。だいたい選挙のときはポスターが仲良く(悪く?)ならんでますよね。
人は死ぬのは孤として死ぬのでしょうが、父と母のいない人はいないのですから、生まれるのは孤として生まれないのです。そして子供は全員、最初から自立した個人ではなく、最初は父母に、やがて社会の他の人に助けてもらわなければ生きていけない存在です。そして社会人になって、今度は誰かを助ける番となり、その手段が「税金」なのだと思います。やはり社会の最小単位は家族だと思います。
touma_onlineさん
承認されない人たちが酷い目にあうから,人々は承認を求めるのではないでしょうか.承認されずとも安心して生きられる社会が望ましいと思います.
私の父は30年ほど前に亡くなり、 子供たちは他所に住んでおりましたので、 母はそれから28年のあいだ一人住まいでした。 しかし、 本心はどうあれ、 さびしいといったこともなければ、 子供たちに帰って欲しいといったこともありませんでした。
そこで、 思い出すのは、 子供のときからよくきかされた次のことばです:
「一人いて喜ばは二人と思うべし。 二人いて喜ばは三人と思うべし。その一人は親鸞なり。」
母は、農繁期でもない限り、 朝夕30分づつの仏壇の前での「おつとめ」を欠かしたことはありませんでした。 そして、おなじようなおばあさんたちとよく仏教談義をしていました。
屋外で転倒し、腰の骨を折ったときも、 幸いにも近くに住む私たちのいとこが気が付き病院に運び込んでくれました。それから老人ホームでの車椅子の生活になり老人性ボケが進行しまして私の名前を間違えても、 「正信偈」は正しく唱えることができました。
仏陀の「自灯明、 法灯明」ということばは、「自立」とはすこし違うとおもいます。
心理学の本には、 勇ましいことをいう「強い人」というのは、 じつは弱みを隠しているのだということがよく書いてあります。
maho_nakataさんへ
池田信夫さんは、「死ぬときは無縁であり、」と書かれています。私は「死は社会的事象」と書きました。私が言いたいのは、「生命としては一人で死んでいくのだけれど、社会的に死を認知する事が現代日本における死の意味である」ということです。しかし実際には、全ての人が社会とが関わりがある訳ではなく、社会的認知の無いまま死を迎える人もいるので、今さら無縁社会といって驚くべきものではない。コミュニティとしては、アウトサイダーをなくすためにコストをかけるのか、アウトサイダーの存在を前提として構築するのか、が問題なのですが。。。
> IT産業では、若者が自分でコーディングを習得できる。こういう専門性を身につけた人々にとっては 。。。
池田先生でもこういう認識をされておられるとすると、 日本のソフトウェア産業は本当にだめになります。
マイクロソフトとかグーグルが修士どころか博士号の取得者を雇ってプログラムをさせているのには理由があります。
コンパイラ、 OS、 DBMS、 Webサーバ・ブラウザ等の基本・汎用ソフトを作成するには、 多くの理論、 標準的なデータ構造・アルゴリズム、 プログラミング・パラダイムを知らなければなりません。 コーディングができるというのは、 のこぎり、 かんな、のみがつかえるということで、 それだけでは五重塔は建てられません。
現在の高級言語を使用すれば、 詳細仕様書を書くより早くプログラムが作成できます。 青色の発光ダイオードを発明した中村修士先生が、 自分が他の人達より有利であったことは、 自分で溶接等もして実験装置を作成できることであったと述べておられました。
しかし、 ユーザ・インターフェイスはユーザ・インターフェイスのプロに決め手もらい、使用説明書等は文書作成のプロに書いてもらいます。
それにしても、 日本のソフトウェア技術者はあわれですね。 私もよく知っております。 もう少しまともに扱ってくれるところに脱出するのもよいかもしれません。
ブログの内容を拝見して思うのは、プライベートなコミュニティは、どんどん小さくなるのに、パブリックなコミュニティは巨大化しているということです。これは20年前から上野千寿子が指摘していたし、当事の厚生省もわかっていました。昔は大家族でジジイやババアも同居していたのに、核家族化が進みました。そして今では、おひとりさまの時代に突入しています。それに対して企業や役所などの公共機関は巨大化していく一方です。この現象の問題点は、ブログにあるような心情的なものではありません。少子化や高齢化社会というような人口構成に問題が生じるということです。そして、家族が社会を構成している要素になっていて、それが崩壊すると、社会も秩序を維持しきれなくなるということです。日本は世界でも類を見ない高齢化社会を迎えています。この後、どうなるのか?衰退と滅亡のみなのか。あるいは、日本は世界に先駆けて、新しい社会モデルを作りあげるのか。その答えが出る前に私は死んでますからどうでもいいのですが、興味深いです。
江戸時代は大半は共同墓地なのだし、社会死、共同体死というのは別に不幸ではないでしょう。家族とではない、コミュニティ死という形を認めてもいいのでは。
・・族、・・系、・・男子、・・女子など日本人は何かに属しようとします。こう言う区別種類で型にはめて考えようとする。属していないと不安なんでしょうね。そしてそれらになじめない人を村八分にする。
死ぬ時は一人・・心理だが生きている時は幸せ安らぎを求める本能がある。生→死とみるか死→生とみるか。