大災害を国家経営の転換に結びつけよう

松本 徹三

福島原発事故による放射能汚染の状況は未だ予断を許さず、被災地の病人や高齢者、乳児等は未だに危機的な状況を脱せていない。被災者の多くがなお悲惨な状況下での生活を余儀なくされており、「これからの生活がどうなるのか」という事になると、未だ全く何も見えない状況だ。それ故に、被災者のライフラインの一つである「通信」を担う事業会社に勤務し、多くの社員が現場で必死になって頑張っているのを見ている私としては、長期的な問題を論じることすらが、現時点ではなお躊躇される。


しかし、如何なる短期的施策も、長期戦略に言及することなくしては議論出来ないのも事実だから、今回は敢えてこの問題に触れる事にする。

1)先ずは、「今回の反省を今後の『起死回生策』の基にすることの重要性」を、あらためて訴えたい。

今回の大震災が通常の想定の規模をはるかに超えるものであったことが、多くの問題の「言い訳」に使われているが、厳しい事を言わして頂くなら、「津波の規模」以外は、これは「言い訳」にはならないと思う。犠牲者と被災者の数については、首都圏直下型の大地震の可能性すらもが、これまでにも繰り返し言われてきたのだから、「今回は多すぎた」という言い訳は通用しない。

震災直後の体制や、震災がもたらす経済的混乱への対応については、どんなに大雑把なものでも良いから、シミュレーションに基づく「基本的なマニュアル」の類は、当然作られていて然るべきだった。然るに、少なくとも国家レベルでは、そういうものがほとんど整備されていなかった様であるのは、極めて遺憾と言わざるを得ない。済んでしまった事は仕方がないが、今からでも至急作るべきだ。

特に、全体を包括する「統合データベース」の構築は急務だ。これにより、支援物資の需給関係が一目瞭然となるし、情報が欠落している地域(従って、支援組織がこちらから出向いて情報を取得すべき地域)もはっきり分かる。この「統合データベース」は、長期にわたる今後の諸施策を策定する上でも、大いに役立つ事になろう。

原発事故の問題についてはもっとそうだ。これまで原発推進派の人達は「大丈夫」という言葉を繰り返してきたが、世の中に100%大丈夫という事がないことぐらいは誰でも知っている。可能性は如何に低くとも、問題を引き起こす要因は数多くある(例えば、「電源の完全喪失」や「放射能汚染により現場への立ち入りが不可能となる事態」)。従って、その一つ一つを想定し、「それが起こった場合にはどうするか」を予め決めておくのは、関係者の当然の義務だったのではないか?

原発については、多くの人達が神経質になるのは止むを得ないことだ。これに対する対応は、「論点を曖昧にして誤魔化す(民は拠らしむべし、知らしむべからず)」事ではなく、「徹底的に情報(問題点と対応策)を開示し、丁寧に説明して理解を得る」事でなければならなかった。反対派や一般市民を韜晦しようとする姿勢は、自分達自身を韜晦する事にも繋がってしまう。

従って、「原発を推進すべき」と本気で考える人なら、本気であればある程、「一旦不幸な事象が起こって信頼感が揺らいでしまうと、もはや何をしても元には戻らなくなる」という「極めて大きなリスク」を常時意識し、何事に対しても誠意を尽くして、万全の対応をしておくべきだった。そして、それに伴うコストアップも、事業計画の中に当然含めておくべきだった。

この事について、私がこの時点であらためて言及するのは、「今からでも遅くない」と考えるからだ。特に「情報の完全開示」は必須だ。既に事は起こってしまい、信用は地に落ちてしまったのだから、これ以上その事を心配する必要はない。「技術力」自体は十分にあるのだから、全てをタイムリーに且つ詳細に説明していく事こそが、広く国民の信頼を得る為にも、諸外国の信頼を取り戻す為にも、どうしても必要だ。現状は、明らかに、説明不足によって生じた「不信感」と、それに起因する「過大な心配」が蔓延している。

2)次に注文をつけたいのは「政治」だ。というよりも、「政治に対する基本的な姿勢」だ。
菅首相は、今こそ覚悟を決め、次のように宣言すべきだ。間違っても、「今回の大震災で内閣の延命が出来た」等と考えてもらっては困る。

「私の在任中にこの未曾有の大災害が日本を襲った事は、『運命』として厳粛に受け止める。私は生命をかけてこの難局に取り組むので、どうか大連立の『救国内閣』に参画して私を助けて欲しい、その代わり、復興の目途がつけば、その時点で私は辞職する。その後の事は、その時点で国民の信が得られる人に引き継ぎたい。」

重要な事は、「区切りがつけば辞任する」事を明言し、「政治的な思惑」に対する一切の疑惑を払拭した上で、野党の協力を求めるという事だ。

同時に、民主党がマニフェストで国民に約束したもののうち、金のかかるものは全て凍結し、全ての資金を「被災者への支援」と「復興」に振り向ける事を宣言すべきだ。国家財政が破綻に瀕している今、膨大な復興資金を国債の増発で賄うわけには行かないから、増税は避けては通れないが、どういう形の増税が最も効率的で、且つ国民の理解が得られ易いかについては、大連立内閣の閣僚が、全員しばし政局を忘れ、虚心坦懐に叡智を集めるしかない。

残念ながら、現時点で、民主党政権への諸外国の信頼は地に落ちている。と言うよりも、「日本の政治的後進性」が、外国人の目に露わになってしまっている。しかし、「禍を転じて福となす」事は可能だ。何れにせよ、少なくとも欧米人にとっては、日本は昔も今も「不思議の国」なのだから、ここで日本の政治家と国民が一致団結して目覚ましい結果を出せば、外国人は驚き、「成る程、日本は我々の常識を超える凄い国だ」と考えて、一転して信頼と期待を寄せる事になるだろう。

3)エネルギー対策と産業経済政策の大転換

多くの友人や知人からの反発を恐れずに敢えて言うなら、私自身は、元々は「広義の原発推進派」だ。今回の事で更に多くのことを学んだのだから、これを機にこれまでに犯してきた「多くの基本的な誤り」を徹底的に正せば、完璧に近いやり方で原発を建設し運営する事も可能だと考えている。

しかしながら、現実問題としては、もはやどこの住民も新規の原発の建設は受け入れないだろう。従って、日本が原発への依存度をこれから段階的に縮小していく事は、結局は不可避だと私は考えている。これは、国民経済には大きな打撃を与えるが、「在日米軍は日本の安全保障の為に必須だが、沖縄の人達だけに負担をかけ続けるわけには行かない。(しかし、本土に代替地はない。)」というのと同じで、解を得ることが極めて難しい「絶対矛盾」だとも言える。

原発反対派は、ほぼ同時に環境保護派でもあると思われ、この人達は、電気自動車を普及させろと言うが、火力発電には反対、ダム建設にも反対だろう。しかし、太陽光発電や風力発電、地熱発電だけで日本の電力需要の全てを賄おうとすることなどは、夢のまた夢だという事が、やがて誰の目にも明らかになるだろう。新しい代替エネルギーの開発も、どんなに上手く行っても、コストが見合うようになるには数十年はかかるだろう。

従って、結局は、「色々な立場の人達を満足させる為の色々な施策を組み合わせる」事しか、日本に道はなく、結果として、日本は慢性的な電力不足と高いエネルギーコストに悩まされ、これによって、産業経済の競争力が或る程度低下するのは不可避と、覚悟せざるを得ない。

多くの異論はあろうが、誰かのアゴラの記事にもあった様に、極端にKYを気にし、「誰の目にもいい子に見えるようになりたい」と考えて、そのように行動するのが、日本人の一般的な特性だと私も思っている。従って、私には、結局は上記のような流れは避けられないと思えてならない。だから、その前提に立って、これからの日本の進むべき道、出来れば「起死回生」となる手立てを考えてみたい。

先ずやるべき事は、これによる国内の空洞化を恐れずに、エネルギーを大量に消費する主力産業の海外立地を、むしろ促進していく事だ。(これにより、「自然災害多発国である日本に全てを集中することのリスク」も、或る程度軽減出来る。)そして、日本自体は、徹底的に知識集約的な、世界に冠たる「省エネルギー、省資源の循環型社会」を目指すことだ。

事業拡大意欲に溢れた人達は、「技術力」と「経営力」と持ち前の「忍耐力」を武器に、世界に活躍の場を求め、美しい「ふるさと日本」にその利益の一部を還元する事に注力して欲しい。経済的な成功より「人と人との共生と調和」を求める人達は、日本に留まり、「活力や華やかさはなくとも、それなりに住み易いコミュニティー」の建設に注力して欲しい。

隣国の中国が全体主義国の統率力で国民の不安を封じ込め、原子力発電所の建設を加速して経済大国への道をひた走りに走っても、「価値観の相違」と考えてあまり気にせず、北京や上海が煌々とした光に満ちた喧騒の大都会となっても、東京や京都や仙台は、「最高度に環境を保全した世界有数の文化都市」としての誇りを持ち、無用な対抗意識を燃やさなければよい。

幸いな事に、省エネルギーと環境保全の理念に適合する一方で、今後の世界レベルでの産業経済競争でも「最も重要な要素」となるであろうものとして、「情報通信技術(ICT)」の分野がある。従って、これからの日本が、精密工業や材料工学の分野での先進性に磨きをかける一方で、徹底して「ICT立国」を志向する事は、理にかなっている。また、この分野での成功は、「第三の波」が支える「新しい文化」の創造にも繋がるだろう。

「第三の波」とは、アルビン・トフラーが使い出した言葉だが、飢えを克服した農業革命の「第一の波」、燃料や電気で動く機械を利用して、大量生産、大量輸送を実現した「第二の波」に続くもので、「情報通信技術」によって人間の精神的な満足が実現される社会をもたらすものである。「第三の波」は、大量生産と大量消費のシステムを縮小し、人や物の移動と運搬も少なくするので、自動的にエネルギー消費を減らし、環境を保全する。

日本は、これからしばらくの間は、我慢をしながら、「上記のような流れに乗れる人材の育成」に注力していくしかないと思う。