リスク論 再考

小幡 績

皆さんはいつの時代にも戻れるとすれば、いつの時代に戻りたいだろうか。

私は江戸時代だ。理由は、ゆったりとして町が明るそうだから。あれほど町人が楽しそうで生き生きとしていた社会はほかにあるだろうか。欧州の中世は陰鬱になるし、米国には存在しない。

江戸時代が豊かで平和で幸せであった理由は何か。戦争がなく、政治体制が安定していたから平和であったのだが、もうひとつ平和な理由があった。それは、人生における幸福の評価軸が変化しなかったことである。


江戸時代には、質的な技術革新は目覚しいものがあったが、本質的な社会構造やライフスタイルは変わらなかった。その同じライフスタイルの中で、質を高め、幸福を高めて行ったのである。個人にとっては、生まれ故郷から都市へ放り出されるかどうかは大きな運命の分かれ道であったが、マクロ的には、この構造自体が安定していた。16世紀から17世紀の公共事業革命による農業生産力の大幅上昇後の18世紀以降は、大きな社会構造の変化はなかった。

江戸時代の経済の捉え方には賛否両論あるだろうが、ここで議論したいのは、評価軸が変化しない、あるいは将来変化するという見通しがないことによる社会厚生の安定というメリットである。この評価軸の予期せぬ変化こそがリスクというものなのではないか。

ナイトの不確実性の議論のことではないか、と言われそうであるが、同類の事象あるいは同種の人間の不安について語っていることは事実ではあるが、ちょっと違う。これは学問的に確立している議論ではなく、個人的な私見の域を出ないが少し述べてみることにしたい。

恋愛でも夫婦関係でもいいし、食生活でもいい。もし、パートナーの変更を考えないのであれば、その関係性を深め、改善することにしか、厚生を高める方法はない。だから、愛情や時間やレジャーの機会やモノを投入して、幸福な関係を深める。しかし、パートナーの変更が可能であれば、同じパートナーよりも大きく革命的な改善がなされる可能性がある。したがって、その可能性の誘惑に駆られ、新しいパートナーを試して見たくなるが、一般的には、パートナーを変更すると元には戻れなくなるため、新しいパートナーとの関係による幸福度は、関係を深めることを試行錯誤してみないとわからない。だから、このシフトはリスクなのであり、事前には計算できない。

もっとも計算できないのは、相手の心持である。それは当然といわれるが、このフレームで言い換えると、パートナーもこの関係にコミットする度合いが自分と同じくらい深いかどうかはわからないし、パートナーの今後の潜在的な将来のパートナーとの出会いという偶然にも頼らざるを得ない。したがって、パートナーの将来の気分による選択は予測できないし、その選択が依存する偶然の事象も普通の確率分布では捉えきれない。なぜなら、それらの出会いのプールも、彼ら(彼女ら)のそのときの気分や意思によるからだ。

これは恋愛談義ではない。経済や社会でもまったく同じだ。証券市場では、ソロスが再帰性と言ったり、的を捕らえようとして自分が動くとそれが的を動かす、と言ったりしているのも同じことを意味している。

最近の(といっても少し前か)経済学者は、歴史的経路依存性ということで済まそうとするかもしれないが、そういう次元ではない。もちろんバナジー(Abhijit Banerjee)のHerd behaviorのモデルのほうが断然近いのであるが、それとも少し違う。常に気まぐれ的な意思がほかの主体にも影響を与え、その作用が、社会に広がって、自分にも直接帰ってくるということであり、それが偶然と意思(気分)との相互作用で常にうごめいている状況だ。

このような状況においては、パートナーを変えること、あるいは自分の幸福の評価軸を変えることには、コントロールできないリスクがあるし、合理的な計算ができない。

したがって、人間はフレームワークの変更や世界間の移動に対しては、合理的でない不安を持つのである。
江戸時代においては、そのようなフレームワークの変更や世界の移動は存在しなかったから、悩む必要もなかったし、非合理的な不安もなかった。JINの世界ではないから、衝撃もないと同時に不安もない。逆に、その分、現在のフレームワークの中で思う存分暴れることができるし、いろんな新しいことを工夫して生み出そうとするし、質を高めることに専念することができる。ブレイクスルーは不幸と不安の源なのである。

これは現代社会にも当てはまり、新しい軸への移行は不安を増幅させる。やや強引に長くなりすぎた議論を切れば、放射能への不安もそう捉えることができるのではないか。放射能漏れが継続する社会、次にその事故が起こる可能性があるという事実を認識してしまっているという状態の社会に移行することはきわめて不安で、それならば、原子力発電所はリスクが存在しないと目をつぶっていた311前の世界か、原子力発電所を抹殺してしまう世界に居残りたい。ある意味、原子力発電所について考えなくてすむ世界にとどまりたいということなのではないか。

放射能のリスクについて考え、それをコントロールし、うまく付き合うというのは、現時点では別世界なので不安すぎる。ところが、もし停電が頻発し、節電により冷房を止めていて熱中症で老人が死亡したというニュースが頻繁に聞かれるようになると、その反動で、原子力発電所は安全だということを信じたいという方向に移るかもしれないが、そのときもリスクコントロールするということではなくて、存在に目をつぶっていられる状況に移行することを求めるのではないか。

たとえば、がん保険に入っても、がんにならなくなるわけではないのに、有名人ががんで死ぬと、がん予防に走らずに、がん保険に入るというのと同じだ。推論をし続けても意味はないが、たとえば、電力会社に任せるのは不安だから、国が責任を持つことにすればいい、賠償も今後は国で行うことにすれば安心だ、という議論になる可能性はあり、それでは事故のリスクを減らしたことにはならないのに、人々は元の世界、原子力発電者の存在を気にしなくていい状態に戻って安心するのではないか。

次回は、もっと幅広い議論に適用して議論を深めてみたい。