人口問題を議論することは罪である

小幡 績

人口問題はどうでもいい。議論することは無駄である。

私はこう考える。人口問題については、多くの論者、とりわけ多くの経済学者と私はスタンスが異なる。多くの論者は、すべての経済問題は人口問題から来ている。年金の破綻も経済成長率の低下も、国力の低下も。だから、人口問題を解決しないといけない。このときの人口問題とは、人口が減少するのをどうするか、という問題である。要は、どうやって人口を増やすか。

私は、この問題設定自体が誤りだと考えているし、増やそうとする議論も間違いだと思うし、したがって、人口増加対策も不必要どころか、やってはいけない政策だと考えている。

何が根本的に間違っているか。

それは、人口とは操作変数ではなく結果変数なのであり、説明変数ではなく、被説明変数なのであるという点への誤解だ。

人口は操作するべきものではない。結果として出てくるものだ。人口は目的でも手段でもない。コントロールもすべきではない。

年金制度が破綻する。それは高齢化と少子化が進むからだ。姥捨て山はできないから(本当は姥捨て山をするべきだと本気で考える経済学者やいわゆる知識人もいるが)、子供を殖やし、労働力人口を増やすしかない。

経済成長は労働力人口の減少によるから、それを増やすしかない。労働力人口の減少はコスト高になるから、輸出競争力の維持のために、移民を促進して低賃金労働者を確保するしかない。

これらの議論は、本末転倒、何のために政策を打つのかそれが理解できていない。

経済成長も年金制度維持も目的ではない。手段なのだ。社会を幸福にするための。年金制度を維持するために、若年労働者層を企業に抱えさせたらどうなるか。2030年までの年金の拠出金不足問題は回避されるかもしれないが、2050年に同じ問題が起こるだけだ。しかも、本質的に経済において仕事が増えたわけではないのに、正規雇用が増えたらどうなるのか。雇用の柔軟性はさらに失われ、日本企業の柔軟性は失われ、経済活力は低下し、空洞化がより深刻に将来起こるだけだ。

だからやはり経済成長だ。だから、低賃金労働力を確保するために移民を促進せよ、となる。しかし、短期で単純労働の賃金は低下し、輸出競争力は維持されるかもしれないが、社会の民族構成が変化し、社会は変化する。どこの国でも民族構成は、社会における最も重要な要素のひとつとして認識しており、そのバランスを崩すことに対しては、全力を挙げて阻止する国がほとんどである。

マレーシアのブミプトラ政策は有名だし(人口増加を意図したものではないが)、イスラエルは、入植を促進し、その結果、ロシア系移民が国内経済、政治に大きな影響力を持つようになり、経済は、バブルとその崩壊、社会は、ユダヤ教の伝統を重視する勢力が衰退した。イスラエルの人口問題は特殊であり、そのような事情があるからこそ、人口というものを動かそうとしたわけであり、生半可なことでは人口を操作することはきわめて危険である。

年金制度はまさに手段であり、高齢者の生活保障、不安の解消のためにあるが、生活が確保され、不安が低下すれば年金がなくても問題はない。たとえば、住居と医療が確保されるのであれば、現金がなくとも不安はほぼ解消される。一方、年金がもらえても、家族の絆がなく、孤独死の不安があれば、それは高齢者の人生を不安に陥れる。

経済成長ですら、それは幸福な社会のための土台であるが、経済的な富がゼロではやっていけないが、ある程度の水準以上であれば、所得水準よりも治安、コミュニティの豊かさ、街の表情などのほうが、社会にとっては重要であるから、やはりひとつの手段に過ぎない。

しかし、ここに年金、経済成長、人口における変数の違いのもうひとつが明らかになる。そして、それが人口問題議論を瞑想させている原因である。それは、人口は、手段でも目的でもなく、社会の結果として現れてくる現象変数であるということだ。そして同時に、目的変数となる可能性もあることである。これが混乱を極める原因である。

とにかく日本人の数を増やして、世界における日本人のウェイトを高めるというのは民族の目的としてありうる。また生物の目的としては当然でもある。そういう思想を背景に人口増加論を打つのであれば、それはひとつの考え方だが、やっかいなのは表面的にはそうではないのに、無意識にそのような感覚が存在している可能性があることだ。

だから、経済成長のために移民を増やせというのは間違いだし、年金制度を維持するために少子化を防止せよというのも間違いだ。しかし、日本に活力をもたらし、世界の大国となるべく人口を増やせ、というのは危険思想だといわれるが、論理的にはありうる。
しかし、ほとんどの、少なくとも経済現象として人口問題を捉えた場合の議論あるいはその論者たちはナイーブであり、そこまで考慮していない。

そうであれば、人口問題はやはり結果として出てくる現象変数であり、議論することは意味がない。結果としての人口、人口構成を所与として、その中での豊かな社会を作るための政策を議論するべきだ。

その文脈での少子化対策は、社会や社会制度あるいは雇用制度などが障害となって、生物として子供を生みたいのに、経済的制約で産めないのであれば、それは産めるようにすることは意味のある政策であり、議論する価値はある。

しかし、あくまで人口はその結果出てくる、個人と社会の選択の結果出てくる現象変数なのだ。