原発施設の対外輸出は大いにやるべき

松本 徹三

「日本での新規の原発の建設は当分の間あるべきではない」というのが大方のコンセンサスであると認識しているが、だからと言って「原発施設の輸出を自粛すべき」と言うのは全く馬鹿げた考えだと私は思っている。国が先頭に立って輸出促進をするというわけにはいかないだろうが、民間企業が自らの信念によって輸出に努力するのをとやかく言うべきではないし、金融や保険については当然通常のプラント輸出と同じ扱いにすべきだ。


原子力発電は、核兵器と異なり、それ自身が悪であるわけではない。ただ、「安全性の確保」と「万一の場合の対策」がこれまでは全く甘すぎたのを猛省しなければならないという事だと思う。現実問題としては、日本では、仮にこれまでの数倍の対策を講じたとしても、新しい原発施設の建設を容認する地域住民は少ないであろう。しかし、他国、特に、これから急速に産業構造の転換を計らなければならない発展途上国においては、恐らくそういう事にはならないだろう。

原子力発電を容認するか拒絶するかは、突き詰めればリスクとメリットのバランスの問題だ。各国の国民がそれぞれに判断するべき問題だし、その判断に対して他国がとやかく言うべきものではない。尤も、万一事故が起これば、放射性物質は他国にも拡散するから、各国に任せっぱなしというわけには行かないのも事実だ。その為にもIAEAという国際機関があるのであり、一定の安全基準を満たさないものは、国際的な圧力で止めさせるべきであるのは当然だ。

原子力発電などの平和利用とは異なり、核兵器については、理性的、道義的な見地から言えば、全ての核兵器が直ちに一斉に廃棄されて然かるべきだ。しかし、そんな事が起こるべくもない事は誰でもが知っている。核拡散防止条約の遵守すらもが常に綱渡りの状況なのだ。日本は自ら非核三原則を宣言し、唯一の被爆国として事ある毎に核の廃絶を主張してはいるが、世界の現実の前には全く無力である。表面上拡散防止条約の尊重を謳っている国でも、内心では五大国だけが核兵器を保有している現実に釈然としている訳ではない。

本当は、人類は核技術の開発を初めから封印するべきだった。どう考えても、核の持つ潜在的な脅威を封じ込めるに足るだけの叡智を人類は持っているように思えないからだ。もし人類がそれほど理性的な存在であるのなら、何故現在世界の各地で、大規模なものから小規模なものまで、色々な理由による殺人や破壊が毎日のように行われているのだろうか? キューバ危機を辛うじて乗り切ったことで、米ソ二大国が激突する破滅的な核戦争は避けられたが、その後も世界の各地で紛争は耐えず、世界中のあらゆる場所でテロの脅威は日増しに増大している。

日本では、地震と津波という自然災害によって原発の安全神話が脆くも崩れたわけだが、米国などでは、何事によらず常にテロの脅威を第一に考えて、その対策に苦慮している。日本でサリンガスを使ったオウム真理教のテロがあった時に、米国から瞬時を措かず調査団が来たのもそれ故である。あの事件では、教団のやり方が稚拙なものだったので被害を最小限に食い止められたが、もし彼等がもっと緻密に計画を練り、同時に起爆するタイマーをつけた小瓶を何千個も用意して、大勢の人間が群がる大都市の色々な場所に時間をかけて置いていっていたとしたら、どれだけの大惨事になっていた事だろう。今なお、サリンのような猛毒の化学物質を誰でもが比較的簡単に作れる事こそが脅威なのだが、今や核兵器もその領域に近づきつつある事が、米国などにとっては頭痛の種なのだ。

実を言うと、私自身は、「核技術」以上に「遺伝子組み換え技術」に大きな脅威を感じている。「バイオハザード」はエンターテイメントだから、気味の悪い生物が次々に襲いかかってくるが、実際にはそんなことはなく、種々の実験の副産物として「どうにも制御し得ないような新種のウィルス」が作り出され、それが流出して、静かに、そして瞬く間に人類を絶滅させるかもしれないのが恐ろしい。少なくとも「そのような事は絶対に起こり得ない」とは誰も言いきれないだろう。そういう事から言えば、「遺伝子組み換え技術の開発は永久に凍結」という国際的な取り決めがなされても然るべきとも思うのだが、現実には、癌の克服や食糧増産の為に必要という事で、「研究の凍結」まではとても無理だろう。

私が言いたいのは、「危険はあらゆるところにある」という事だ。私達の身の回りは、大きいものから小さいもの、目先のものからずっと先のもの、そして、確率(実現頻度)の高いものから低いものと、実に種々様々な危険で満ちあふれており、それに対する対策も、これまた星の数ほどある。(「核」と「ウィルス」が超大型の脅威、「毒性ガス」が中型の脅威とすれば、「銃器」や「爆発物」は日常的な脅威だ。銃器の管理については日本が極めて厳格であり、そのおかげで乱射事件のようなことは少ないが、爆発物については世界中のあらゆる国が殆ど同じ条件だ。)

現実問題としては、一つの危険に過度に神経質になって他の危険を忘れてしまうというのも問題だし、全ての危険に神経質になって毎日怯えながら生活するのも問題だ。(全てに神経質になっていては、「杞憂」という言葉の語源になった古代中国の「杞」の人達と同じになってしまう。)やるべき事は、「国としても、個人としても、全てのリスクを正確に把握し、これに対して冷静に且つ注意深く対応する」事だ。

(誤解を避ける為に言っておくと、私は、福島の原発事故に起因する放射能汚染物質の拡散の現状に関連しては、現在の政府のやり方では、「全てのリスクを正確に把握し、これに対して冷静に且つ注意深く対応する」事にはなっていないと考えており、それ故、現状には大きな不満を持ち、不安も感じている。)

さて、話が本筋から大きく離れてしまったが、ここで今回の議論の主題である「原発技術の輸出の問題」に戻って考えてみたい。

今や、原発の開発に従事してきた人達は、安全神話を強引に押してきた「原子力村」の一員として糾弾されることが多いようだが、これでは、真面目に研究に打ち込み、仕事をしてきた多くの人達に対して大変失礼だと、私は思っている。上の方の意向を重んじるあまりに、十分な安全策の欠如を指摘してこなかった事については、当然非難されて然るべきだが、中には今回の事を痛切な反省材料にして、「今度こそ世界一安全なシステムを作り出そう」となお意欲を燃やしている人達も多いと思う。国内の仕事が急速に萎もうとしている今、輸出の道まで閉ざしてしまえば、この様な人達の糧道を絶ち、情熱の行き場をなくしてしまう事になる。

「自国では危険だと思って新規の設備を作らないのに、そのようものを他国に売り込もうするのは道義にもとる」と言っている人達もいるようだが、これは極めて感傷的な考えであって、全く合理的とは言えない。日本人が要らぬ心配をするまでもなく、相手は日本が売らなければ他国から買うだけのことだ。一方、「安全」とか「道義」とかいう概念には、常に色々な解釈があるのだから、自国の判断を他国に伝えるのは必要ではあるが、押し付けるべきものではないと考える。

「日本がこれまで原発に極めて熱心だったのは、『原発の開発をする事によって、何時でも核兵器を開発出来るだけの技術力を育てていく』という『隠れた意図』が国の上層部にあった為だ」として、その事を糾弾する人達もいるようだが、私はこの事にも違和感を持つ。

私は、「日本は核兵器を作らず、保有もしないが、核兵器保有国に引けをとらないだけの『平和利用の為の高度な核技術』を、国として堅持、育成していく。それ以上に、『原発の安全な運用』という面では、これまでの失敗の経験を最大限に生かし、世界をリードするべく研鑽を重ねていく」という事を、日本は堂々と公言するべきだと思っている。

「完全な核廃絶を希求する」という国是に照らして、釈然としないものが残るとしても、日本が他国をコントロール出来ない限りは、その現実の中で「日本のあるべき姿(経済力の維持と安全保障)」を考えるのは、独立国として当然のことだ。

なお、以上は、「一人の日本人」として私が現時点で考えていることであり、私の現在の職業や、職業を通じての人間関係とは、全く何の関係もないという事を、念の為申し添えておきたい。