「百人斬り競争」事件について日本人が知らなければならない「本当」のこと(5/5)

2012年02月08日 00:25

(つづき)
次は、野田少尉が、最終的に第二回「上訴申弁書」の提出を諦め、自らの死を覚悟した後に書かれた「日本国民に告ぐ」と題された遺書です。
参照:百人斬り競争」資料 「日本国民に告ぐ」

これを読んで、胸の詰まる思いをしない日本人はいないでしょう。ところで、この両少尉の死が、その他の中国に捕らえられていた日本人戦犯二百六十名の命を救ったかも知れないのです。というのは、この「百人斬り競争」は東京裁判でも審理がなされ、両少尉それに浅海記者も取り調べを受けたのです。その結果、この記事はすべて「伝聞」によるものであるとして、「東京裁判では本裁判は無論のこと、個人を裁く『戦争放棄を無視したC級裁判』としても、このことを立証し有罪に持ち込むことは不可能である」と判断され起訴はされなかったのです。


ところが、両氏を南京事件の容疑者として南京に送れとの中国からの要請があり、マッカーサー総司令部司法部長のカーペンターは「中国では公正な裁判ができるのか、あるいは、少なくとも表面的に、公正な裁判であることを印象づけられるような裁判ができるのか」危惧しましたが、結果的には、先に谷寿夫をB級戦犯容疑者として南京に送った経緯があり、二人を南京に送ることに同意しました。(『新「南京大虐殺」のまぼろし』P306)

その結果、カーペンターが危惧した通りのことが起こった。当時中国では「国共内戦」が後半期にさしかかっており、国府軍は全東北地方から撤退しつつあり、共産党は国共内戦の最大の山場である「北京戦」に勝利し、北京に入城し、「北京市人民政府」を樹立していました。そこで、カーペンターは谷寿夫、向井、野田両少尉の裁判の様子を聞き、「もうこれ以上は待てない」と思ったのか、中国に捕らえられている日本人戦犯260名を、共産党に引き渡すことなく日本に帰還させたのです。(上掲書322)

つまり、野田、向井両少尉等の裁判が、新聞記事だけを証拠に死刑判決を下すという近代法では考えられない無謀な裁判となったことによって、その他の日本人戦犯260名は、無事日本に召還されたのです。この事実が両少尉にとっていくらかでも慰めになればと思いますが・・・。

一方、この虚報によって両少尉を死に追いやった日本の記者及び新聞社の責任はどうなるでしょうか。山本七平は30年ほど前に書いた『私の中の日本軍』の中で次のように言っています。

「この事件は、今では、中国語圏、英語圏、日本語圏、エスペラント語で事実になっている。しかし、明らかに記事の内容自体は事実ではない。従って、これを事実と報じた人びとは、まずそれを取り消して二人の名誉を回復して欲しい。独裁国ですら、名誉回復と言う事はあるのだから。そして二人の血に責任があると思われる人もしくは社(東京日日新聞現在は毎日新聞=筆者)は、遺族に賠償してほしい。戦犯の遺族として送った戦後三十年はその人々にとって、どれだけの苦難であったろう。

人間には出来ることと出来ないことが確かにある。しかしこれらは、良心とそれをする意志さえあれば、出来ることである。もちろん私に、そういうことを要求する権利はない。これはただ、偶然ではあるが、処刑された多くの無名の人々の傍らにいた一人間のお願いである。」(山本七平ライブラリー『私の中の日本軍』P247)

ご存じの通り、この事件は裁判でも争われました。この裁判のポイントは、「浅海記者は両少尉の話をあくまで事実として聞きこれを記事にした」と認定したことにあります。毎日新聞社も取材は適正に行われたと主張しています。従って、仮に、この「百人斬り競争」が虚偽だったとしても、それは「誤報」であって「虚報」ではないというのです。朝日新聞が、この事件を戦闘行為ではなく「住民・捕虜の虐殺」だったとする書籍を販売していることについては、歴史的事件の「論評」であって言論表現の自由の範囲内としました。

つまり、この「百人斬り競争」事件のポイントは、私が本論の冒頭で述べた通り、この記事を書いた記者本人が、「二少尉から聞いた話を事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という点に集約されるのです。浅海記者は、東京裁判検察官の尋問に際しても”真実=事実として聞いた”と答えています。はたしてそうか。確かに、この記事は、二少尉が「語り」それを浅海記者が記事にしたものであることは間違いありません。

だが、それは戦場心理を逆用した「ヤラセ」だったのではないか。浅海記者はそれを事実らしく見せるため、わざわざ佐藤振寿記者や鈴木記者を連れてきて「証人」としたのではないか。だが両氏は浅海記者に誘われて両少尉と会見している。もちろん両氏とも、浅海記者が両少尉と無錫で談合した事実を知らない。また佐藤記者は両少尉より”数の勘定はお互いの当番兵を交換して・・・”と聞いたが、第二報の記事では「東日大毎の記者に審判になってもらうよ」となっている。また、鈴木記者は、この競争のルールを「南京まで(=一定の時間内)に100をめどにどちらが多くの敵を斬るか」だと思っている。

ということは、この競争において誰が審判を務めるかということも、その競争のルールが何であるかということも、プレーヤーである両少尉が知らず、佐藤記者は審判を当番兵と聞き、鈴木記者はそのルールを「時間を限定して数を競う」ことと理解していたということです。そして、これらを「知っていた」のは実に浅海記者ただ一人だった。だからルールの変更も出来たのです。これだけのことをやっていて、二少尉の話を「事実として聞き、そのまま記事にした」と言えるでしょうか。自分が創作した記事だからこそ、先に指摘したような「事実」に見せかけるための数々の細工が出来たのではないか。

以上本稿では、この事件を、浅海記者は両少尉の話を「事実として聞いたか、それともフィクションとして聞いたか」という観点に絞って、山本七平やベンダサンの分析を紹介してきました。これによって、それが「ヤラセ」であったことは明白になったと思います。そして、これが架空の武勇談であれば、その後の、これを「住民・捕虜虐殺」事件とする議論は全て霧消します。にもかかわらず、あえてこれを証明しようとする人たちがいますが、それは、冤罪が確定した人物の余罪を探し回るような行為であって、止めはしませんが正気とも思われません。

つまり、この事件についての論争は、山本七平が以上のような論証を行った30年前に、すでに決着していたのです。そもそも裁判は、訴因に基づいて法律的な判断をするだけで、歴史的事実を解明するものではありません。従って、その判決如何に関わらず、毎日新聞社は、この事件の結末について報道機関としての責任があります。また、朝日新聞社も非人権的な行為は止めるべきです。これは山本七平が言ったように、まさに日本の報道機関の「良心」の問題です。

一刻も早くこの事件に決着を付け、これを、昭和史の謎を解明する一つの手がかりとすると共に、日本人における迎合の問題やマスコミによる虚偽報道、言論空間における空気支配の問題を克服するための”歴史的教訓”とすべきだと思います。(下線部挿入)
以上
資料:「百人斬り競争」資料
なお、以上紹介した山本七平の論証について、これを洞富雄氏によってすでに論破されたもの、とする意見が寄せられていますので、この時の洞氏の論理と、それに対する私の反論を紹介しておきます。これをみていただければ、「百人斬り競争」論争はすでに30年前に決着していることがお分かりいただけると思います。
参考:洞富雄氏の論理を検証する――洞氏は山本七平の論証を論破したか

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