こんな日本に誰がした(2) - 「生きる」より「飼われたがる」日本人

北村 隆司

経済的にも、文化的にも恵まれた環境にある日本で、他人の悪口や愚痴が余りにも多いのがいつも気になっていた。何故か?

この疑問が、散歩がてらに立ち寄ったセントラルパークの動物園の動物を見ている内に解けた。「今の日本人は、自らの力で生きるより『飼われる』方が好きな国民になった」と言う事に気がついたのだ。

「飼い易い動物」の条件としては、パニックに陥っても、飼育係が制御しやすい性格である事と、自分自身よりも序列が上の個体に従う習性を持つ事が重要らしい。


興味深いのは、永く飼育されて家畜化が進むとどの動物も脳が縮小し、飼育係に都合の良い部位が肥大化する代りに、病気などに弱くなり日常生活も飼育係の手助けが必要になってくると言う。

人間も永い間保護されて生活すると、「選択と集中」の圧力から解放される結果、動物園の動物に似た「自己家畜化」が進むことが科学的に確認されていると言う。それにしても、今の日本人が「家畜化された動物」そっくりなのは驚くべきで、「飼育係」を「官僚」と読みかえると、今の日本が判り易い。

聖書にある「人はパンのみに生きるにあらず」と言う格言は、人が本当に幸福になるには、肉体的な必要の充足だけでなく、自由とか独立と言った、動物にはない精神的、感情的な必要も満たされる必要がある事を説いた名言だが、「自己家畜化」が進み、即物的な欲望しか持たない今の日本人は、「人間とは何か?」等と言う「そもそも論」には関心すらなく、興味を持つのは「パン」だけになってしまった。

東洋にも「衣食足りて礼節を知る」と言う人間社会特有の「わきまえ」を重んずる事を諭した格言があるが、残念ながら、衣食が足らなかった頃の日本の方が礼節を重んじ、節度を保ってきたような気がする。

動物は自分の本能的欲求さえ満足すればそれ以上は求めない「自足型個人主義者」だが、人間は野生動物の様に自足も出来ない癖に、家畜化されても「他人より恵まれたい」と言う「強欲」を持ち続けるだけ始末が悪い。

独立自尊の気概を失った今の日本人は、問題が起こる度に「他人の悪口」を言ったり「愚痴」をこぼし、都合の悪いことは「飼育係」の所為にさえすれば、問題が解決したと思う悪癖を身につけて仕舞った。

「家畜化」された人間社会は、言葉の乱れのような文化破壊には鈍感で、文化を否定して隷属させる行為が横行してもなんとも思わない。只、食事が不足したり、住環境が悪化すると飼育係に対する不満の大合唱が始まる。これは、餌を求めて飼育係の言う通りに懸命に演技するアシカや犬、サルの世界と同じである。

ジョージ・オーウエルが、全体主義や官僚的独裁主義への痛烈な批判を込めて描いた『動物農場』は、圧政に耐えかねた農場の動物が「雄豚」の指導の下で、「動物主義」を掲げて反乱を起し、新しい「動物農場」をつくりあげたが、仲間の不和や争いが絶えず、結果的には支配者が入れ替わっただけで、抑圧的な農場が続いた物語である。

この物語は、自由と独立に対する憧れを失い、官僚の規制にがんじがらめになっても「現実主義」を捨て切れない今の日本人には、通じない風刺かも知れない。

偶然とは言え『動物農場』に登場する主役が、今の日本の政界に余りにも似ているので紹介しておく。

ナポレオン(指導者の雄豚。演説は苦手だが狡猾。後に独裁者と化す:小沢一郎)

6匹の犬(ナポレオンが密かに育てた犬の一群で、ナポレオンに忠実な存在。敵対した動物を粛清する。後に子供もできたことで数が増える:小沢派の陣笠代議士)

モーゼス(カラス。天国の存在など沢山のユートピア神話・都市伝説を吹聴し、困窮する家畜達に希望を与える半面、現状打破の意欲も削いだ:鳩山由紀夫)

スノーボール(雄豚で指導者の一人。一時は主導権をにぎり、風車建設計画や農場電化計画を推進するが、ナポレオンによって追放され、反逆者とされる:菅直人)

ボクサー(雄馬。働き者で力持ち。他の動物たちから尊敬されていてナポレオンも一目置く。常に「I will work harder.」と言って真面目に働く律儀者。病気になって売られてしまった:野田佳彦)

ヒツジたち(政権にに反対する動物や、都合の悪い発言が出た時に、議論の脈絡に関係なくある特定のスローガンを連呼して妨害する:自民党、公明党)

話を現実に戻すと、人間的な質が悪化し「飼われた」方が楽だと思う様になった日本では、改革は遅れ、ジリ貧傾向が止まらない。矢張り、「こんな日本」にしてしまった最大の責任は、国民自身にあるのであろう。

北村 隆司