男と男、女と女が結婚できる社会が意味するもの --- 目崎 雅昭

2012年02月25日 08:30

友人にゲイの男性がいる。

彼と出会ったのは、戦争の傷跡が生々しく残るボスニアの首都サラエボだった。たまたま同じゲストハウスに滞在し、雑談しているうちに意気投合した。そのあと1週間ほど、バルカン半島を一緒に旅した。

彼が南、私が北へ向かうために旅路を別にした数日後、メールで彼は「そういえば、ゲイだったことを言ってなかったね」と伝えてきた。


見た目や話し方からはまったく想像できなかったし、そんな話題にもならなかった。しかし私が同性愛者ではないことは、それまでの会話から彼は知っていた。そこで私たちの友人関係にとって、彼がゲイであることは特別な意味がなかった。

その後、彼の母国ベルギーへ行ったとき、彼の家に泊めてもらった。そして私がパリとロンドンに住んでいたとき、訪ねてきた彼は私のアパートで泊まっていった。そして日本にも遊びに来た。

私たちは、政治、経済、哲学、文化、アート、スポーツに至るまで、なんでも話題にして、何時間でも議論をした。そしてゲイであることがどういうことなのか、という話になった。

ロンドンのトラファルガー広場で、周囲の人々を眺めながら彼は言った。

「世界のどこの社会にも、必ず同性愛者がいる。だからここから見える、こうやって集まった人たちの中にも、必ずある一定の割合で同性愛者がいるんだ」

彼は人々を指さしながら続けた。

「でも同性愛者って、なにも特別じゃないんだよ。女性の服装をしたり、性転換手術をする人もいるけど、多くの同性愛者は僕のように、外見はストレートの男性や女性とまったく変わらない。そういう人たちのほうが、実は世の中には多いんだよ。たとえば、君がワインが好きでウイスキーが嫌い、みたいな感覚で、僕は男が好きで、女に興味がないだけ。ただ、それだけの違いなんだ」

人にはそれぞれ、好みの違いがある。だから同性愛も、単に性的嗜好という好みの違いに過ぎないのだと、この時はじめて実感した。

先週の2月16日、アメリカでニュージャージー州の上院が、同性の結婚を認めることを賛成多数で可決した。これで同性結婚を認める州は8つ目になる。

世界を見ると、同性結婚が合法化されている国はたくさんある。北欧をはじめとする西ヨーロッパではほぼ全域で認められており、オーストラリア、ニュージーランド、カナダや、中南米でもメキシコ、コロンビア、エクアドル、アルゼンチン、ブラジルなどで合法である(注:パートナーシップ法として、男女の婚姻とは別に、実質的に同等の権利を保障する場合もあり、国によって違いがある)。

これらの国には、ひとつの大きな共通点がある。個人にどれだけ多様な生き方が保証されているか、つまり社会がどれだけ「寛容」であるかだ。

同性結婚を認めている国では、ほぼ例外なく、男女の平等が世界でもっとも進んでいる。<男>とか<女>というカテゴリーではなく、「本人の意思」が優先され、尊重される社会なのである。それは「結果の平等」ではなく、「機会の平等」を保証しようとする動きにも重なる。

男性と女性は、生物として大きな違いがある。そこで社会が何もしなければ、男女の機会は平等ではない。だから同じチャンスが与えられるように優遇する制度をつくることは、男女が同じ土俵に立つまでの支援にすぎない。機会の平等を保証することで、あとは本人の意思と判断に任せるのだ。結果を同じにすることとはまったく違う。

社会学者のリチャード・フロリダは、同性愛者が住む地域は文化的にオープンで寛容性が高いため、さまざまな才能や人的資本を引きつけ、クリエイティブな人を多く輩出すると語っている。さらにそういった地域は、結果として不動産の価格も上昇するという。

リチャード・フロリダの理論は、大きな論争を巻き起こした。同性愛者の割合よりも、教育レベルの高さが都市の発展に強く関係しているという批判もある。コミュニティーというミクロなレベルで、経済発展と同性愛者の割合が必ずしも一致するかは分からない。しかし少なくとも、寛容なコミュニティーがクリエイティブであることは間違いないだろう。

そしてもうひとつ、とても重要な共通点がある。寛容度の高い国は、生活満足度や幸福度も高いということだ。

見た目が違う人を、差別なく平等に尊重することは、実は分かりやすい。もちろん現実は、世の中にはまだまだ差別が存在する。しかし、見た目の違いは誰にでも明らかなので、その差別を無くすことは、比較的に達成しやすい。

それよりも難しいのは、「意思や好みの違い」を認めることである。

どこの社会でも、同性愛者は目に見えない少数派だ。そこで多数決の原則に従うのであれば、多数派に直接的なメリットのない同性結婚が合法化されることは決してないだろう。

しかし寛容な社会とは、多数派が自分に直接関係がないことでも、少数派の意思を尊重し、権利を認めるのである。それに実際は、多数派にも大きなメリットがある。

あなたが人生で望むことは、すべてが多数派と同じではないだろう。いつあなたが、どこかの少数派に属しても不思議ではない。すべてが平均的な人間など存在しないからだ。

したがって少数派がリスペクトされる社会とは、多様な価値観が認められることであり、より多くの人々が、より自分の意思を実現しやすくなる。それは多数派にとっても住みやすい社会だ。それが「多様化」を推進する本当の意味であり、成熟した民主主義の姿といえる。
個人の違いが尊重される国民の、幸福度が高いのは偶然ではない。

さて、それでは、日本の現状はどうだろうか。

日本では、同性結婚など話題にも上がらない。それどころか、結婚していない親から生まれた子供(非嫡出子)の権利が、法的に差別をされている。また男女の平等を評価する「男女平等指数」では、日本は135ヵ国中98位で、一夫多妻を認めているイスラム教国と肩を並べている。ちなみに多くのイスラム教国では、同性愛者は死刑の対象となっている。そして日本の幸福度は、先進国で最低レベルだ。(参照:『幸福途上国ニッポン』目崎雅昭著)

「常識だから」が口癖ならば、「多数が正しい」と盲目的に従っていることになる。「~らしくしなさい」と強要することは、多数派の型にはめようとする意図がある。「みんなと同じにしなさい」は、違う人を排除する発想だ。

そういった表現が死語となり、歴史の一部として語られるようになったとき、はじめて日本が寛容な社会だといえるのだろう。そのときが来れば「人と違うことは素晴らしい」と、当たり前のように感じられるはずだ。

どこの社会にも必ず存在する、目に見えない少数派の人たちが、そんな社会に変革されたときの、生きた証人となるのである。

目崎雅昭
国際文化アナリスト
目崎雅昭オフィシャルサイト

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