これでは「ケースワーカー」は可哀そう ― 受給者を自腹で救って口頭注意

北村 隆司

「“自殺する”と泣きつかれ……受給者に自腹で8万円」と言う見出しの小さな記事が目にとまりました。記事を読んでみますと「西宮市で生活保護を担当する男性職員2人が、男性受給者に『生きていくのが嫌になった。生活保護を打ち切って』『自殺する』などと泣きつかれ、ポケットマネーから7回にわたり計7万8000円を渡していたが、市に『生活に困ったときは担当課の職員に相談すれば、お金をもらえると言っている』と匿名でメールがあり、発覚した。市は『適切な対応ではなかった』と2人を口頭で注意した」とあります。


市当局は、一番肝心な「適切な対応」が何かは示していませんが、若しこの二人の職員が何もせずに受給者が自殺したら、新聞の見出しはどうなっただろう? そして、この二人はどんな処分を受けただろうか? と思うと、複雑な気持ちです。

欧米と違い、罪刑法定主義の徹底していない「半法治国家」の日本では、受給者が自殺でもしたら、「処分」を受けるだけでなく「冷酷な公務員」として実質的な「村八分」扱いを受け、永い間肩身の狭い思いをする事は間違いなさそうです。しかも、「連座制」社会が特徴の日本では、受給者に応対した二人の職員だけでなく、上司や同僚、知り合いまで巻き込んで、社会の冷たい眼に晒される恐れも大です。

この短い記事を読む限り、こんな受給者の詐欺に引っかかったのが馬鹿だと言う意見もあるかも知れませんが、私にはこのお二人は自己を犠牲にして、公共の為に人情味のある判断をしたのだと感謝したい気持ちです。それにしても、口頭注意とは余りにも官僚的で、私なら、お役目ご苦労さんと声を掛けたいのが正直な気持ちです。

「大岡裁き」と口で言うのは簡単ですが、「結果」が良くないと強い非難を受ける今の日本では、「大岡裁き」はリスクばかりで何も報われない大仕事です。

理屈と情のバランスが崩れ、理屈が勝つ世の中になると、世相は急激に「ネガテイブ志向」に傾斜します。なぜかと言うと「否定的」な事を言って居れば、誤りを指摘される機会が大幅に減るからです。

大岡裁きについても、否定的な意見が五万と出ています。例えば:
「大岡越前のような人物が、継続的に生まれる可能性がとても低く、そのような人物がいるときだけ、大岡裁きができるのでは、不公平極まりない」
「現代的な民主国家において、一人の人物に莫大な権力を渡す構造そのものが危険」
と言った類です。

大岡裁きの特徴は、結果責任が個人にある事です。これ等否定的な意見は、責任が個人に降りかかる事を嫌い、何とかシステム化して、犯人を規則の所為にしたい今の日本の傾向がが良く表れています。

若し誰でも大岡裁きが出来るなら、それは大岡裁きとは言いいません。又、「一人の人物に莫大な権力を渡す構造そのものが危険」と言いながら、責任が何処にあるかさっぱり判らない霞ヶ関に、膨大な権限を渡している事はすっかりお忘れです。

誰も「大岡裁き」を制度化しろとは言っておりません。今回の大災害でもニュースでは判断ミスばかり出ていますが、その陰には無数の「大岡裁き」が有り、それが感動を呼んだのではないかと思います。

より多くの人が、咄嗟に誰もが納得出来る判断が出来る社会にする為には、知識や理屈だけでなく、伝統や経験に学び、又、善意の判断ミスに寛容な社会を作る事が必要だと寺田寅彦は教えています。現に、今回の震災でも、被害を最少に抑えたケースは、これ等の経験を身につけた個人の判断によるところが多く、これも立派な大岡裁きです。

そして、何でも罰する社会では、人間は微妙な判断を避けるようになる事を、今回の震災が教えて呉れました。それなのに、なぜ「口頭注意」なのか?と言う強い疑問を持ちます。

「国に人情味があってほしいとは思いますが、それもどこかで線引きしないと駄目ですよね。裁判員制度というものが導入されるようなので、今後は一般人の常識・価値観等も裁判においてある程度重要になってくるかもしれません。このことを考えると社会の風潮が大岡裁き「賛成」のほうにあるかと思います。」と言うコメントも目にしました。

その通りであって欲しいものです。

国民一人一人が自分で物を決める習慣を身につけないと大岡裁きは勿論、自立的な成長社会は生まれないと思うのですが、どうでしょう?

北村 隆司