代表性の神話

池田 信夫

消費税をめぐる騒動は論理を超えたドタバタ劇になり、何が争点なのかさえ理解できない。ニューズウィークでも書いたように、ここには日本の直面している代表性をめぐるパラドックスがあらわれていると思う。


民主党も国民新党も小沢一郎氏も、それぞれが民意を僭称しているが、問題はそもそも代表すべき民意が存在するのかということだ。議会制民主主義は一意的な民意を普通選挙で代表させることを前提にしているが、これは論理的に成り立たない。ArrowやGibbard-Satterthwaiteが証明したように、人々の異なる選好を一貫して代表させる民主的な投票手続きはありえないのだ。

もっと根本的に議会制民主主義を否定したのがマルクスである。彼が議会を「ブルジョワの委員会」と軽蔑したことはよく知られているが、これは「議員が階級的利害の代表者だ」という単純なことを言っているのではない。『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』で、彼はこう書いている:

民主派の議員たちはみな商店主であるか、あるいは商店主を熱愛している、と思い描いてはいけない。彼らは、その教養と知的状態からすれば、商店主とは雲泥の差がありうる。彼らを小市民の代表にした事情とは、小市民が実生活において超えない限界を、彼らが頭の中で超えない、ということであり、[・・・]これが一つの階級の政治的・文筆的代表者と彼らが代表する階級との関係というものである。(pp.67-8 強調は原文)

「文筆的代表者」を「メディア」と読み替えると、これは代表性の本質を見事に突いている。愚かな政治家やメディアは、その支持者の階級的利害を代表しているのではなく、彼らのフレーミングを「頭の中で超えない」のだ。ポストモダン風にいえば、マルクスは代表性=現前性(representation) の神話を否定し、民意なるものはメディアの作り出す虚像だと述べているのである。

これは彼が商品の物神性を暴いたのと同じロジックである。貨幣が商品の価値を代表していると素朴に信じるブルジョワ経済学は、恐慌でその価値が破壊されると驚くが、むしろこのとき初めて価値の無根拠性が明らかになる。同様に、ブルジョワ民主主義の信じる民意も、政治家やメディアの生み出す共同幻想にすぎない。Arrowが証明したように、一貫した意思決定は独裁的でしかありえないのだから、プロレタリアートの独裁というスローガンは論理的に正しいのだ。

議会制民主主義によるかぎり、日本の劣化した政治をきらって海外に出て行く企業や人材が増えれば増えるほど、国内に残された生産性の低い企業と高齢者の民意がますます強く代表されるという逆淘汰が生じる。政府債務でも「代表なきところに課税なし」という近代国家の原則に反して、政府は選挙権のない将来世代に課税している。

このパラドックスを解決することは容易ではない。それは選挙制度改革である程度は是正できるが、議会による決定が矛盾をはらむことは原理的に避けられない。それを避けるには、維新の会のように独裁制をとるしかない。どちらもいやなら、政治の領域を減らして大事な問題はなるべく政治によって決めないことが賢明である。