「小沢裁判」-結果がどちらに転んでも「被害者」は国民

北村 隆司

いよいよ、小沢裁判の判決日を迎えた。 天木氏や植草氏の様に、何事もたちどころに結論を出せる魔法の杖を持たない私だが、報道を見る限り小沢氏の無罪は間違いなさそうだ。

今回の裁判結果の予想は、専門家になればなる程無罪論者が多い。その理由は、「政治資金規正法違反」と言う極めて狭義の法手続き上の問題を巡って争われたからである。


換言すると、犯罪の有無より、犯罪の犯し方を裁いた裁判だと言っても過言ではなかろう。

金集めよりばら撒き好きな鳩山元総理、金には無関心らしい岡田副総理と比べると、小沢氏にはゼネコンから毎年多額のお金を集めて来たと言う悪いイメージがつきまとう。政治の師が田中角栄、金丸一郎両氏だと言う事と、その錬金術が瓜二つである事も小沢氏のイメージを悪くしてきた。

悪いのはイメージだけではない。「亡父も票田こそ残してくれたが、遺産はなかった」と公言したかと思うと、 09年10月には金融機関からの融資と説明していた土地購入原資の4億円が、裁判では「父親から相続した遺産が元になった」と陳述するなど、言い分が二転三転するだけでなく、「新生党」と「自由党」を解党した際、多額の公金を含む22億円余の使途が不明となった疑念が未だに残るなど、金を巡る不明朗な噂は尽きないなど自分の垢の多さも一流だ。

こう見てくると、本来なら資金洗浄の有無で裁かれるべき処を「政治資金規正法違反」で起訴されたのは、小沢氏と検察との取引きだったのでは? とすら思える。

その様な時に、政治資金で不動産を購入して利殖を図った陸山会事件が明らかになり、政治資金の投機的運用を禁じる政治資金規正法に抵触するのではないかという議論が起きた。これがきっかけで、資金管理団体が不動産を所有することを禁じた政治資金規正法が改正された事を考えると尚更疑問がつのる。

小沢氏は、政治家専業でありながら、何故これほどまでの資産を持っているのか? と言う国民の素朴な疑問に答えるべきである。不正がないのであれば、自ら過去の税務申告内容を明らかにして、その潔白を証明すべきである。英米の政治家にも不当な風評を払拭するために、自ら税務申告内容を開示して名誉を回復した政治家は多い。小沢氏も英米の政治家の名誉回復策に学んではどうか。

「金は貰ったが、違法でない。金集めをして何が悪い」とも言わんばかりの裁判での主張も、小沢氏の倫理観に対する疑問を払拭する妨げになった。小沢氏は一般国民とは異なり、国会議員と言う公務員であり、国民の信託を受けて国家を指導しようとする指導者であり、その受託責任は大きい。

大阪地検特捜部主任検事証拠改竄事件でその信用を地に落とした検察は、その後も石川代議士の捜査の段階で、田代検事がウソの捜査報告書を書き、供述調書が信頼するに足らないものであったことがわかった。

これ等の不条理は、刑事事件に関する証拠を圧倒的に握っている検察側が、英米の様な徹底した証拠開示の導入を拒否する不公正さに大きな原因があると思われる。

それだけではない、小沢弁護団は「検察官が検察審査会を欺いた」と主張したそうだが、この主張を聞いた検察側が、弁護団の懲戒請求をしないとすれば検察を信用する事は益々出来なくなる。

かと思うと、一般国民には許されない「記憶にない」「知らない」「関わっていない」と言う小沢氏の言い訳が、今回の裁判では認められそうでもある。

日本の裁判には民主主義の根本である公正さは存在しないと悟るべきなのであろうか?

今回の判決で裁判官から「法技術的には被告を有罪に問う事は出来ないが、被告人の言動には多くの疑問があり、一般の公序良俗に従って無実と言い切る事も出来ない。」程度のコメントをつけてくれない限り、日本の裁判制度を信頼する事は難しい。

この裁判を通じて、裁くべき事を裁かない日本の司法制度も小沢氏も信用できない事がはっきりした。残念な事に、司法制度の不備の最大の被害者は、日本国民であった事も良く判った気がする。