尾崎豊とノマドワーカー 自由な生き方に答はあるか?

常見 陽平

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NHKの『SONGS』尾崎豊特集を見た。

ふと気づいた。尾崎豊は、今、話題のノマドワーカーの出現と、その限界を予言していたのではないか、と。


まず、最初に言っておく。私は尾崎豊ファンではない。若い頃、周りの同級生たちが彼を教祖として崇拝していたものの、私は面白いくらいハマらなかった。ガンズ・アンド・ローゼズの方が暴力とセックスの臭いがして刺激的だったし、私の気持ちを代弁してくれていたのは忌野清志郎やブルーハーツだった。

ただ、尾崎豊のことを全く知らないかと言えば、そんなことはない。むしろ、かなり聴いている方だと思う。彼は、なんせ早く亡くなったので、オリジナル・アルバムのリリース数が少ないこともあり、ひと通り聴いている。他のアーチストのカバー集だって持っている。彼は「若者の代弁者」と言われていたが、いまや尾崎豊はすっかり会社に飼いならされリストラに怯える中高年のアンセムなので、カラオケでもよく耳にする。だから、彼の曲は何度も、様々な曲を聴いている。

さて、NHK『SONGS』の尾崎豊特集だが、30分弱という短い時間だったので、やや端折った感は否めないが、彼のことを回想する(若い世代にとっては彼を知る)良い機会だったのではないだろうか。改めて、彼の強さと脆さ、居場所難民の臭いを感じとった次第である。プロデューサーへのインタビューなどは、ファンにとってもたまならなかったのではないだろうか。

いつも音だけで曲を聴いてきたわけだが、映像で、しかもライブのMCなどを聴いていると曲の解釈も変わってくる。

「学校」や「家」に所属することを拒み、盗んだバイクで走りだすのだが、彼は「自由になれた気がした」だけであり、「自由になった」わけではない。学校は彼を「支配」していたのかもしれないが、卒業したところで、会社や社会が人を支配していく。

まるで何かみたいではないか。
そう、最近、話題のノマドワーカーだ。

MBS系の『情熱大陸』で安藤美冬氏が取り上げられたこと、本田直之氏の本が売れていることなどもあり、組織や場所や時間に縛られずに働くノマドワーカーが話題になっている。最近、著者や編集者と打ち合わせするたびに、ノマドワーカーと安藤美冬氏の話題となる。「そんな美味い話ないだろ」「うさん臭い」「自由な働き方なんてない」「ノマドって結局なんだよ?」という意見が9割くらいなのだけど。

「組織にとらわれずに自由に働きましょう」という話は美しく聞こえるが、そもそも「自由な働き方」などないことに、皆が気づき始めている。それはなぜか?仕事とは価値を創出、提供して価値を得る行為である。顧客や取引先が存在する以上、そこからの自由はあり得ない。

会社を辞めて、ノマドワーカーになった彼らは「自由になれた気がした」だけであり、「自由になった」わけではない。

私自身、最近、会社を辞め、15年間のサラリーマン生活、社畜人生にピリオドを打った。物書き、大学講師の仕事をしつつ、大学院で研究をしつつ、主夫をしている。

この15年間では、学生時代に「絶対に嫌だ」と思っていた残業、休日出勤、接待、希望外の異動・転勤・出向、パワハラを受ける、セクハラや社内恋愛を目撃する、過労やメンヘルで倒れるなどサラリーマンらしいことをひと通り経験した。

もちろん、嫌なことばかりではなくて、仕事を通じて経験値もたまり大きく成長できたし、良い出会いもあった。仕事での達成感を何度も味わうことができた。会社で表彰されたことも何度かある。それこそ「やらされた」ことを通じて、自分の武器が増えていった。最悪な部署や二度と会いたくない上司も何度か経験したが(しかも、そういう嫌な上司が偉くなっていく過程も目撃した)、一方で居心地のよい職場、素晴らしい上司や仲間に恵まれたことも何度かあった。

会社に所属しない生き方が始まった。いつも、MacBook Airを持ち歩き、時間のあるときに、日本のどこかで原稿を書き、研究をしている。まるでノマドワーカーではないか。でも、やはり「自由になれた気がした」だけであって、「自由になった」わけではない。いつも原稿の締め切り、講義の準備、大学院の宿題に追われ、自分の存在が何なのかさえわからず震えている。

「会社を辞めて、ノマドワーカーになって自由に生きましょう」ということが煽られていて、そのノウハウを伝える有料セミナーまであるわけだが(有料セミナーについては、悪いわけではなく参加者が価値を感じればいいだけの話なのだが)、ぜひ言いたいのは、「この世に地上の楽園などない」ということだだ。過去に「地上の楽園」を求めて、また「自由な生き方」に踊らされて苦しんでいった人たちがいたことを忘れてはならない。

とはいえ、本当に「自由な生き方」があると思うなら、やりたいことがあるなら、一度きりの人生なのだから、トライすることを私は否定しない。

人間は、常に地平線、水平線を目指すものである。

見果てぬ地平線、水平線を目指すのは、愚かなことなのか?その向こうにはまた、地平線と水平線があり、行き着く果てなき旅が続く。ただ、立ち止まって砂に埋もれ、水で溺れるよりも、私は歩き、泳ぐことの方に意味があると思っている。歩き、泳ぐことによって、自分とは何で、どこに向かうべきかがわかるのである。埋もれる前に、溺れる前に、前に進むのだ。

こうやって、私のような希望難民が増えていくのだけど。

話は戻るが・・・。
「自由になれた気がした」のか「自由になった」のか。
せっかくのゴールデンウィークだ。立ち止まって考えたい。