大丈夫か、エリート --- 中村 伊知哉

2012年08月13日 09:45

近鉄奈良駅。吉野行き特急を一枚。するとぼくと同い年ぐらいの窓口のオッサン、「今の時間やと○○分に西大寺でて橿原神宮に○○分に着きまっさかい乗り換えて吉野着が○○分ですわ、はいオツリ」とたちどころに答えた。

さすが近鉄、この道一筋とおぼしき叩き上げのオッサンの頭には、全時刻表と料金表が収まっている。近鉄といえば小川亨も大石大二郎も石渡茂も高校出たてをしごいて筋骨隆々に仕立てて闘わせる叩き上げ、いや実際はみな大学出てるんだが、そういうイメージをぼくが抱くのは本業から来るものでしょうか。


いやJRだって、和歌山駅で切符を頼んだときも、高校を出たばかりのおネエちゃんから新大阪の乗り換えや東京着の時刻がスラスラと出てきました。国鉄のDNAなのでしょう。ぼくがいた郵便局だって仕事は高卒の叩き上げたちが支えていました。郵政省20万人は巨大な叩き上げ集団でした。叩き上げは、しかと文化を築き、維持しています。

どの分野にも叩き上げはいます。沖縄国際映画祭で「映像作家になるには」をテーマとするシンポの司会を引き受けました。映画、テレビCM、ゲームなどのクリエイターにプロになる道を指南いただいたのですが、パネリストの一人、品川祐さんの話に聞き入りました。

彼は品川庄司としてM1ファイナリストを飾るパフォーマーであり、ヒナ壇芸人の代表。それが小説も当て、映画も「ドロップ」と「漫才ギャング」の2本を立て続けにヒットさせています。監督としての腕も確か。順風の天才と呼んでいいでしょう。

とりたてて映画の勉強はしていない、いきなり創作した、といいます。その点、北野武さんと通じます。だが、驚いたのは、「ずっと、いつか映画監督になろうと思っていた」という告白。長い長いフリーター時代、年300本の映画を見続けていたといいます。明確な将来像を描き、漫才師、タレント、作家というステップを踏んできたのだといいます。

そうか、この人は一種のエリートなんだ。新しい種類のエリートだ。自らドロップしていた時代に底を見ているので真逆のようだが、新しい表現を産み出すエリートというのは、専門学校、映画専科を経た叩き上げよりも、こういうルートから舞い降りるのかもしれません。

品川さんの場合、山野愛子さんの孫という持って生まれた環境も手伝ったのかもしれないが、いや、恐らくは彼の信念と偶然とがかみ合ったもの。真似ができません。手本にしにくい。逆に見れば、クリエイター・エリートを育てるルートが見えないことにぼくは考え込んだわけです。

一つの分野で修練を積み重ねていくのが「叩き上げ」とすれば、「エリート」は別の高等教育機関や英才環境に育ち、組織に降り立つ者とも言えるでしょう。その点ぼくは自分を叩き上げと規定していて、とりあえずギリギリ試験に通って官僚にはなったが、ロックしかやっておらず、行政知識がまるでないから、ゼロから叩き上がるしかない。

ロックだって、エリートつうのは坂本龍一さんのように音を一度聞いたらそのまま演奏できちゃうような人のことをいい、憧れたってどうにもなるもんじゃない。官僚から学者になったところで、アカデミズムの高みから降りたんじゃなくて、脇からよじ登ったんだし。常にぼくの周りには、先を行く誉れ高きエリートがいました。

で、今更エリートが気になるわけです。じゃあこれからのエリートは大丈夫なんだろうかと。

芸術やスポーツのことはさておき、企業や役所のことを考えてみましょう。東大法学部を卒業し、官僚や一流企業に就職、スクスクと出世して頂点を極める。そんなエリート像は崩れ去りました。

官庁はかつてのパワーを失い、官僚がエリート然とできません。一流企業だって、都市銀行はみんな名前が変わってしまうし、東電さえも国有化です。だから、トップクラスの連中は外資に入っていずれ起業だとか、財務省や経産省を踏み台にして学者や政治家を目指すとか、日銀や電通を入口にして国際機関に移ったり、なんてことを言います。

上のほうから舞い降りてきて、その組織で出世していくという構図はありません。既存の組織が値崩れを起こし、その中を駆け上がる魅力がなくなったので、踏み台として利用してとっとと転身していくのがスタイルになっているのですね。

政治もかつての自民党の派閥が養成機構を持ち、党人も官僚出身もしのぎを削るコースがありましたが、二世、三世ばかりが幅を利かせるようになり、その弊害、つまりエリート重視たることが原因で政権が移り、片や民主党政権はあちこちから寄り集まった一年生が多くてまだ出世コースが見えてこない。やっと松下政経塾出身の首相が登場しましたが、それが今後の1コースを形作るかどうか。

ヒエラルキーが壊れて、偏差値神話も崩れて、フラットになるのは結構なことです。能力ある人たちの進路が多様化するのも結構。定まった出世コースがなくなって、かつてならエリートとされた人もそれぞれの進路で転がりながら叩き上げていく世の中は健全です。 以上。

でも、ちょっと待てよ。ふと考えるのです。ホントに全部そうなって大丈夫かと。エリートを「育てる」必要は薄れたかもしれないが、エリートが「育つ」環境は依然、必要ではないかと。特にいま日本は若いリーダー層の出現が求められているのですが、それがどう育つのかが見えないわけです。品川さんが偶然現れてよかったね、ばかりでは済まない。品川さんが必然的に現れる環境を用意しておきたいじゃないですか。

社会構造が液状化して、待ち望んだ方向に進むとしても、スピードが速すぎると歪みますよね。大勢を食わせるには大きい会社や組織はやはり大切で、それを率いる層のボリュームが必要なんですけど、その層の確保がないがしろにされている気がしましてね。

これまでのエリート養成機構が崩れる一方、新しいエリートが育つ機構が間に合わない。でも、これまで以上にリーダー層が必要だ。さて、どうしましょう。「いや、それを用意するのが大学の役割だろう。」というツッコミは、最初から聞こえておりますが。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2012年8月13日の記事を転載させていただきました。
オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。

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