「政治」という名のマーケティング

松本 徹三

科学者は、発見や発明によって、人々が求める商品やサービスが安価に作り出される基礎を作る。事業家は、こういった商品やサービスが実際に作られ、人々に提供される仕組みを作る事によって、富と雇用を生み出す。そして、政治家は、税金の取り方や使途を決め、法律や制度で事業家を支援したり牽制したりする事によって、選挙民に喜んで貰おうとする。全て、大変重要な仕事をしていると言える。

しかし、科学者がよい仕事をする為には、国や企業がその能力を認め、研究費を出してくれる事が必要だ。事業家がよい仕事をする為には、投資家や銀行がその事業計画を認め、資金を投下してくれる事が必要だ。そして、政治家がよい仕事をする為には、選挙民に投票してもらって、自らが所属する政党が政権をとることが必要だ。つまり、誰もが、周りの人達に自分の能力や考え方を認めてもらうように努力する必要があるという事だ。


政治家にとっては、これは絵に書いたように明確だ。時折行われる「選挙」が最大のイベントであり、このイベントに全てを賭ける必要がある。商品なら、「成功」と「失敗」だけでなく、「まあまあ売れた」とか、「あまり売れなかったが損失は軽微だった」とか、色々なケースがあるが、選挙の場合は「当選」か「落選」かの二つに一つしかないのだから、これは極めて厳しい勝負だと言える。

政治家が不特定多数の選挙民に自分を売り込むのは、メーカーや販売業者が不特定多数の消費者に自分達の商品を売り込むのに似ている。「商品」に競争力がなければもともと商売にならないように、政治家も、「人物」や「政策」に魅力がなければ、選挙に出馬する事さえ難しい。しかし、良い商品でも売れないケースが多々あるように、政治家も、自分を売り込む「マーケティング」が下手では選挙には勝てない。

政治家のマーティング活動と言えば、選挙運動が最大のものだが、実は、毎日の政治活動そのものが既にマーケティングであるといってもよいだろう。政治家は、自分の所属する党や自分自身の考えが如何に正しいものであり、選挙民の為になるものであるかを、繰り返し、繰り返し、訴え続けなければならない。

実は、ここに問題がある。

ある商品を売り込もうとすれば、宣伝広告であろうと、店頭のセールスマンの言葉であろうと、「短く」「単純明快で」「相手を勇気付け」「疑念を持たせない」ものでなければならない。実際にはどんな商品にも長短がある。だから、「一見良い商品のように見えても、実は別の商品の方が自分の求めるものに近いものだった」という様な事は、現実にはよくある事だ。しかし、「マーケティングの極意」は、昔も今も、「あれこれ考えさせない事」、「迷わずに買わせてしまう事」に尽きる。

「科学」や「哲学」は、恐らくその対極にあるものだろう。「科学」も「哲学」も、「疑う事」から始まる。多くの「観察」や「実験」、「論理的な思考(計算を含む)」や「仮説(推論)の検証」によって、「物事の本質」や「疑う余地のない真理」に近づこうとする。それは、現実には「迷い」の連続であり、遂に最後まで結論が出ない事も勿論ありうる。逆に言えば、自分を誤魔化して、性急に「楽な結論」を導き出そうとする事だけは、決してやってはならない事なのだ。

さて、「政治」は「科学」や「哲学」に近いのだろうか? それとも「マーケティング」に近いのだろうか? 本来は、「政治」は、その国に住む人々の「幸福感」を全体として最大にする為の仕組みを作るべく、色々に模索して、それを実行する為のものであるべきだから、「科学」や「哲学」に近いものであって然るべきだ。しかし、実際には、これを糞真面目にやっているような「政治家」は、選挙にはとても勝てそうにないから、取り敢えずは有権者を迷わせない「マーケティング」が重視されざるを得ない(「マーケティング」には「売れそうな商品を企画し開発する」事も含まれる)。

本来は、商品の長所と短所を自ら分析し、その結論として「あなたにはこの商品が一番よいですよ」と説得するのが「商売の王道」であっても、そんな事を一つ一つ丁寧にしていたら販売は低迷するから、一瞬で頭に入る単純明快な「キャッチ・コピー」で消費者の心を捉え、短時間で大量の商品を販売する手法を誰もが取る。政治家も同じで、色々な政策の長所と短所を分析するような事は避け、「私の言っている事が絶対に正しく、あいつ等の主張はとんでもない間違いだ」と啖呵を切らなければ、票は取れない。

勿論、「一般大衆」もそんなに単純ではないから、論理に大きな穴があれば疑われる。また、不用意な一言が墓穴を掘る事もある。それ故に、選挙参謀には、「マーケティングのエキスパート」同様に、人間の心理の機微を理解するのに必要な「勘と経験」が求められるわけだ。しかし、この様な選挙テクニックが重視されればされる程、肝腎の「政策」の吟味がおろそかになる事を私は恐れる。政治家本人の頭の中に、仮に自分が推す「政策」に対する疑念が生まれても、選挙参謀はそれを最後まで押し隠す事を求めるからだ。

いや、状況はもっと酷いかもしれない。例えば、某有名政治家などは、かつては切れ味のよい政策提言で世の期待を一身に集めたものだが、長年の政治活動の中で「結局選挙に勝たねば何も出来ない」事を思い知ったが故か、或いは「選挙の神様」と呼ばれる事に自分でも満足してしまったが故か、最近では「もう政策等はどうでもよい」と考えるに至っているように見受けられる節がある。

現在の日本がおかれた状況は容易なものではない。「財政破綻の回避」「成長戦略による雇用の増大」「社会保障体制の組み換え」「産業競争力を害わない中・長期エネルギー戦略」「地方の活性化」「国家としての威信を害わない対中・対韓政策」等々、そのどれをとっても一筋縄ではいかない。そのそれぞれに内在する複雑な利害の相克を押さえ込まねばならず、また、それぞれの政策が新たに生み出す相互矛盾にも向き合わなければならない。これに誠実に対処しようとすればする程、国民へのメッセージは複雑なものになってしまう。

しかし、この「誠実さ」を捨ててしまえば、問題は一挙に簡単になる。仮に今、私自身が全く自由な立場で「選挙の為の選挙」に出馬する事にしたと仮定してみようか。「私自身は日本の将来について何のビジョンも持っておらず、何がどうなっても構わない」という事を前提にした「選挙ゲーム」に参加するという想定だ。私はどうするだろうか?

先ず決めねばならないのは、どういう人達を支持基盤にするかだ。一つは月並みな「ハト派」戦略。「優しい思いやりのある社会」を標榜し、「消費税増税反対」「原発ゼロ」を声高に叫ぶ。この二点については、既に多くの人達がそういう立場を取っているので、それにならえばよいだけだから簡単だ。しかし、その上で、自分ならではの人気取りをしていこうと考えるなら、誰かを悪者に仕立てて、徹底的にこれを攻撃する事が有効だ。

攻撃の対象は、「資産家や大企業を守ろうとしている」財務省、日銀、経産省、電力会社、財界…。要するに現在の社会の上部構造(エスタブリッシュメント)にすればよい。「今の自分の生活があまり楽しくないのは、きっとこいつ等のせいだ」と、漠然と考えている人達は結構いそうだからだ。

「じゃあ社会主義に転換するのか」と問われても、それには答えずやり過ごせばよい。共産主義や社会主義は、今はどうみても人気がないから、そんなものを対抗軸として持ち出すのは愚の骨頂だ。具体案を出し始めると議論が色々と複雑になるから、取り敢えずは「反体制」の一言で「現状に不満のある人達」を纏めるだけでよい。あとは「環境(グリーン)」とか「生活者の視点」とかいった口当たりの良い言葉で誤魔化しておけばそれで済む。

もう一つは「タカ派」戦略。時あたかも、領土問題などで中・韓の一部に日本人としては我慢が出来ないレベルの侮日的な言動が目立つので、徹底的な対決姿勢を表面に出していけば、或る程度の共感は得られよう。それがもたらす長期的な経済的得失などは二の次でよい。

経済問題は、昔の自民党路線をそのままなぞらえておけば事足りる。「災害に強い強靭な国土を作る」と言えば聞えはいいから、これを口実にして大いに公共事業を増やし、青息吐息の地方の土建業者に仕事を与えれば、地方の活性化が目に見えて達成出来る。既に危険水域にある国債の発行残はこれで更に増加してしまうが、まだ2、3年間はもつだろうから、「他国と違って日本には膨大な貯蓄残があるから心配は要らない」とでも言っておけばよい。ここでも、財務省や日銀を「悪者」に仕立てておく事が有効だ。数字で反論する経済学者などは、「御用学者」と呼んで切り捨ててしまえばよい。

要するに、どちらの方向性をとるにせよ、有効な「マーケティング戦略」は存在するので、数年後の日本の事を本気に心配しさえしなければ、取り敢えず選挙戦は戦える。しかし、もし私が、ここでふと正気に戻り、本来の政治家の使命に立ち返って、数年後の日本に思いを馳せるとどうなるだろうか? 私は、突然、「如何なるマーケティング戦略を取るべきか」という難しい問題に直面して、頭を抱える事になるだろう。

先週の私のアゴラの記事でも触れた事だが、原発問題にからんで「命とカネのどちらが大切か?」といったような稚拙な話が、白昼堂々と本気で語られているのが今の日本だ。同じ記事で、私は「全てのエネルギー戦略は数字を伴った具体論で語られるべき」と、「実業の世界では当り前の事」を言ったのだが、これに対しても一部の人から、「数字より理念や価値観が先行すべき」とか「数字に拘っていれば創造力が失われる」とかいう意見が寄せられた。世の中の事は、「カネ」とそれに換算した「計算」がなければほぼ何一つ動かないのに、未だに「カネ」イコール「汚い金儲け」、「数字」イコール「金儲けの計算」という考えを持っている人が現実に存在している事を知って、私は少なからず驚いた。

実際には、残念ながら、多くの国民が政治に期待しているのも、先ずは「経済」即ち「カネ」の問題なのだ。「温室効果」も「自然災害」も「原発事故」も「通り魔事件を頻発させるようなトゲトゲした世相」も、更には、領土問題に象徴されるような「国としての誇りの失墜」も、相当気にはなるが、やはり、突き詰めれば、殆どの人達にとっては、「取り敢えずは自分の生活が第一」なのである。

家庭を持ったサラリーマンなら、間違っても政府の政策のお蔭で、自分の会社が業績不振になったり、海外に拠点を移したりして、結果として自分がリストラの対象になり、職を失うのはどうしても困る。子供達が大きくなれば、食費も衣料費も光熱費も教育費も嵩み、給料が上がらなければ収支が合わなくなるから、これも大いに心配である。一方、定年間近の人達も別の心配を抱える。年金は何時破綻するか分からず、なけなしの貯蓄も状況によっては目減りが避けられないかもしれないからだ。「平均寿命が延びる」等と聞くと、この心配は更に増す。

しかしながら、経済問題は色々な要素が絡み合って、極めて流動的に動くから、どんな政党でも「自分達の提案する政策が何故ベストなのか」を一般大衆に分かり易く説明するのは容易ではない。

どんな政策でも、本気で遂行しようとすれば、それで得をする人と損をする人が出てくるのは避けられないし、「最大多数の最大幸福」を最終的に求める限りは、何かを切り捨てる事もどうしても必要となる。しかし、世の中は「何も失いたくない人達」で満ちているから、この人達を敵に回す事を覚悟しなければ、政治家は結局は何も出来ない事になる。従って、こういう状況に本気で対応する「マーケティング」は、この上なく複雑で難しいものにならざるを得ないのだ。

結論を言おう。

第一に、「ハト派」であれ「タカ派」であれ、「安直なマーケティング」を「本来の政治家の使命」より優先するような人達を、我々は決して国会に送ってはならない。その為には、我々は、単純な「キャッチフレーズ」だけに心を動かされないように常に自戒し、全ての政治家に「数字で裏打ちされた具体論」を求め続けていくべきだ。

第二に、心ある政治家は、今こそ使命感に燃えて、複雑な状況を克服する「高度なマーケティング手法」に心を砕き、何としても国民の目を「将来の日本のあるべき姿」に注がせるべく、あらゆる努力を傾注してほしい。一般大衆は決して馬鹿ではない。誠実で丁寧なコミュニケーションを忍耐強く続けていけば、必ず無責任な扇動者の嘘は見抜いてくれる筈だ。

そして、第三に、ジャーナリストや影響力のあるコメンテーターは、自らの意見は自らの意見として、あらゆる政策が持つ「正」の側面と「負」の側面を、一般大衆(選挙民)の前に並列的に示して、彼等が単純で拙速な判断をしてしまわないように導いていくべきだ。マスコミは、昭和の初期に、自社の売上げを増やしたいばかりに、「国民の心理に迎合したマーケティング」を徹底して行い、結果としてあの悲惨な戦争が引き起こされた。マスコミは、今こそその責任を噛みしめ、二度とその過ちを繰り返さない事を誓うべきだ。