コンテンツの時代

藤沢 数希

アップルは23日、7.9型画面の小型タブレット端末「iPad mini」やより高性能化したiPadを発表した。また、アマゾンは24日、7インチのタブレット端末「Kindle Fire HD」の国内予約販売を開始した。日本向けの電子書籍販売サービスがいよいよオープンする。グーグルは低価格のアンドロイド端末「Nexus 7」を投入している。これらのタブレット端末は、任天堂やソニーのゲーム機の本体のように、原価割れ、あるいは原価程度のぎりぎりの値付けが行われており、各社ともに、いかにタブレット市場を制するのか覇権を争っている。プラットフォームとしての地位を築いた後に、電子書籍などのコンテンツの販売で、利益をあげようというビジネス・モデルである。


しかし、問題はコンテンツの方である。現在、こういったプラットフォームに流す質の高い電子コンテンツが圧倒的に不足しているのだ。これは意外に思う読者も多いだろう。というのも、インターネットが急速に普及し始め、無料のブログサービスなどが次々と生まれた7、8年前は、誰もが簡単に情報を発信できるようになるため、コンテンツが溢れかえり、コンテンツの価格は非常に安くなると思われたからだ。こうして多くのコンテンツが、素人クリエイターにより制作され、人々はほぼ無料でコンテンツを楽しめるようになるというのが大方の予測だった。

ところが、筆者がこうしてインターネットの世界に溢れかえるコンテンツを、いま見渡してみると、その反対のことが起こったことがよくわかる。「金のためではない」人々の創作意欲により良質なコンテンツが継続的に作られることはなく、古典的な経済学が予測する通りの結果になったのだ。

海の灯台や町の公園は誰もが利用できるが、利用者に個別にその対価を請求することは困難だ。これを非排除性という。ケーキは誰かが食べれば他の誰かが食べれなくなるが、灯台や公園は誰かが利用したからといって、他の誰かが使えなくなるわけではない。これを非競合性という。経済学では、このように非排除性と非競合性を持つモノやサービスを公共財というわけだが、公共財は民間が作っても儲からないので、市場原理に委ねると過少供給となる。ブログなどの無料の電子コンテンツはまさに公共財だったわけだ。そして、公共財ゆえに、金が儲からないので著しく過少供給となった。無償のクリエイターにより作られる無料の面白いコンテンツなど、ほとんどないのである。

世の中では評価経済だの、モチベーション3.0だの、いろいろと言われているが、そんなのは金により生み出されるインセンティブの前では、誤差程度の問題でしかない。一番面白い映画は、億単位の報酬が製作者に転がり込んでくるハリウッドで作られるし、面白い小説はもともと有名で出せば確実に莫大な報酬が約束される作家によって書かれるし、面白いマンガは売れて連載を続ければやはり巨額の報酬が約束されている漫画家によって書かれるのである。また、細かなデータの収集や分析が必要な業務は、コンサルティング会社に大金を支払ってやってもらわなければいけないのであって、そこらのブロガーが無料でやってくれるわけではない。ノーマネー・ノーコンテンツである。

このようにいったん金を稼げるレベルに達した一握りのコンテンツ・プロバイダーには過剰に仕事が集まり、その集まった仕事を報酬が高い順番に片付けていくことになる。こうして一握りのクリエイターにより作られるコンテンツの価格はますます釣り上がっていく。現実社会で起こっていることは、IT革命により誰もがクリエイターになれるのでコンテンツがどんどん無料になっていく、ということとは正反対に、コンテンツがますます希少になり、まさにコンテンツの時代になっているのだ。

筆者は、出版社の編集者や、メルマガなどの電子コンテンツのプラットフォーマーなどと接することが多いのだが、コンテンツを売る方の立場から世の中を見てみれば、コンテンツというものがいかに不足しているかよく分かる。ほんの一握りのクリエイター以外、コンテンツを作っても全く儲からず、多くの時間と労力が徒労に終わるのだから、これからも経済学の予測通りに、コンテンツの過少供給が続くだろう。一方で「たまたま」一握りの稼げるクリエイターになった者は、経済学の予測通りに、ますます多くの時間と労力を良質のコンテンツを作るために費やしていくので、その他のクリエイターとはますます差が開いていくのだ。

結局のところ、自由で無料のインターネットが、豊かなコンテンツを次々に生み出すことはなかったのだ。その結果、様々なプラットフォームが乱立するなか、一部のコンテンツ・プロバイダーにとってはますますビジネスがしやすい環境になっているのだ。