「定年の延長」をどう運用するか?

松本 徹三

日本経済の先行きを悲観する人達が必ず上げる問題点の一つが、日本が世界一の「高齢化社会」に既に突入したという事実だ。従って、日本経済を再び成長路線に乗せようと思えば、「高齢化社会」の弊害を取り除く事を考える事が必要だ。そして、何が「高齢化社会」の問題化か言えば、要するに「働いていない(つまり生産性ゼロの)膨大な数の人達が年金の原資を食いつぶす」からだ。それならば、少なくとも一つの単純明快な解決方法がある。それは、この人達に働いてもらう事だ。


そもそも、医療技術が向上して平均寿命が大幅にのびた現代においては、60代や70代は肉体的にもまだ元気だし、働く意欲も十分ある。記憶力や集中力が徐々に減退していくのはやむを得ないが、働いていれば日々相当の緊張感があるので、ボケは防止できる。それなのに「定年制」等の労働慣行が未だに昔のままというのは、単純に厚労行政と企業経営者の怠慢と言わざるを得ない。

例えば、色々な理由で働き始めるのが遅れた人が、仮に60歳で定年退職して、その後は年金生活を送って90歳まで生きたとしたら、働いていた年数と年金生活の年数がほぼ同じという事になってしまう。これでは年金制度が持つわけもなく、今の平均寿命や医療体制を考えるなら、60歳定年というのは全く非現実的だと言わざるを得ない。

しかし、「定年の延長」が当然の事としても、今の労働慣行をそのままにして単純に定年を延長したら、大変な事になる。職場に高齢者がはびこり、自分達が慣れ親しんだやり方に固執して、一人当たりの生産性を低め、職場の活性化を妨げる恐れがあるからだ。

勿論、このように言うと、高齢者の中には当然反発する人達もいるだろう。何らかの役職についてきた多くの人達は、自分がその役職を後継者に譲った際には、彼等が経験不足で頼りなく見え、自分が継続してその仕事をしていた方が会社にとってはメリットだと考えていた筈だからだ。

多くの場合、それは事実でもあるだろう。新任の課長は、就任した時点では、当然その仕事を長くやってきた前任者に比べ能率が落ちる筈だ。しかし、この事にこだわって、その時点で若干ながら能率の高い人間にいつまでも同じ仕事をやらせていたらどうなるか? 「これまでの問題点に気がつき、大胆な改革を行う」チャンスは失われ、長い目で見れば大きな損失になるのは間違いないだろう。

長年の日本の雇用慣行の中で、最も馬鹿げているのは「年功序列」だ。そもそも、ここで言う「年功」は、「長く働いていれば能力と効率が向上するから、待遇にはその事を加味すべき(普通の考え)」という意味なのか、「長い間忍耐強く働いてきたのだから、能力や効率とは関係なく、その事自体を愛でるべき(日本的な家父長主義の考え)」という意味なのか、或いは「その年になれば子供達の教育費も含め生活費がかさむだろうから、その事を考えてあげなければならない(社会主義的な考え)」という意味なのかも不明である。

結論から言うなら、理由の如何を問わず、意味不明な「年功序列という人事慣行」は直ちにやめるべきだ。そうしなければ、能力のある若い人達にアンフェアであるだけでなく、正社員と非正規社員との格差の拡大を助長する事にもなる。本来は「弱い者」の味方であった筈の労働組合は、今や「強い者(正社員、特に永年勤続社員)」を守る事によって、結果的に「弱い者(非正規社員)」を虐げる存在になっている事も忘れてはならない。

何れにせよ、「年功序列」的な考えを随所に残存させたまま「定年の延長」に踏み切る事だけは絶対に避けなければならない。その為にも、「定年制の延長」は「第一次定年」或いは「役職定年」といったものと車の両輪として実行されるべきだ。「第一次定年」や「役職定年」については、人によって色々な考えがあろうが、私は45歳から50歳前後が適齢だと思っている。

日本の多くの会社では、年を経るごとに。これまでとは異なった種類の仕事につくチャンスが与えられるのが普通だ。新しい仕事に取り組めれば、自分の隠れた能力が引き出せるかもしれないし、経験の幅が広がって、将来の為にもなる。だから、この機会は、出来るだけ多くの人に、出来るだけ公平に与えられて然るべきだ。

サラリーマンなら誰でも、大局的な視野を持って、自分の所属する組織を全く異なった方向へと発展させるのが夢だろう。これが出来るポジションは「部長」だったり「本部長」だったりするわけだが、究極のポジションは当然「社長」だ。しかし、このチャンスをつかめる人はそんなに多くないし、そういうチャンスを得られる人は40代ぐらいで大体見極めがついてしまう。だから、40代にもなれば、サラリーマンとして生きる道を選んだ人達は、自分の生涯について大体の見極めをつけても良いとも言える。

しかし、これは「組織内での地位」を中心にものを考えた場合の事だ。「目標とする仕事(結果)」を中心にものを考えると、全く別の考え方が出てくる。「先ず『組織』と『その中での自分の地位』があって、それを前提に自分の生き方を考える」のと、「先ずは『やるべき仕事(達成すべき目標)』或いは『やりたい仕事(達成したい目標)』があって、そこから『その為に必要なステップ』を考える」のとでは、全てが天と地ほどに変わってくる。

大体において、日本の場合は、「サラリーマンとしての生涯計画」を中心に毎日を生きている人達の数が多いように思うが、米国などの場合は、「自分のスキルセットを拡大し、色々な仕事に就いて実績を積み重ね、それを自分のレジメの中に盛り込んで、常に自分を売り込むチャンスを狙う」というのが普通だ。そうなると、組織自体も「日本型」と「米国型」では相当変わってくる。

日本型のサラリーマンの力の源泉は、主としてその人が所属する組織内での地位に依存しているから、一旦その地位を失うと彼等は極めて無力になる。従って、何とかその地位を失わないように、出来る限りリスクを避け、周囲の空気や上司の意向に従おうとする。これに対して、米国型のビジネスマンは、常に理念を明確にして自分の存在を目立たせようとし、実績を上げる事によって自分の存在意義を認めさせようとする。これでは、実戦になれば勝負にならない。

私自身の場合は、大学を出て何となくサラリーマンにはなったもの、「大組織の中での地位」というものについては、早い時期から空しさを感じるようになった事もあってか、生涯を通じて、常に「やるべき仕事(目標)」を中心に考えるようになった。

しかし、世界中の全ての分野の仕事が対象になる「総合商社」という特異な組織の中で、それなりに一定の役職を与えられてしまうと、「自分はこんな事をしていてよいのか」「自分は本当は何を目標にすべきなのか」という事についてなかなか自信が持てず、懊悩する事が多かった。そういう事もあって、私自身は、56歳で自らサラリーマンの枠組みから一歩踏み出したが、まだ若かったので、漠然たる「懊悩」は現実的な「心配」に変わっただけだった。「心配」とは、要するに「果たして一人で食っていけるか」という事だった。

「定年適齢期」をとっくに過ぎてしまった今となっては、最早この心配はない。一方、周りを見ると「これは誰かがやらねばならない」と思う事が結構多く、その中には「自分なら出来そうだし、逆に自分でなければ出来そうにない」と思う仕事がたくさんある。そういうわけで、最近になって、とうとう「70代のうちは働ける限りは働く」という決心をしてしまった。

若い人の働く場を奪うというつもりは毛頭ないし、その可能性も皆無だと思っている。前述の「前任者と後任者の関係」になぞらえて言うなら、私の場合は、仮に「自分でやった方が3割方は効率的に出来る」と思ったとしても、その程度の仕事なら若い人に委ねて自分は引っ込む。「自分がやらねば誰もやらないだろうから、将来の若い人達の仕事を創出する為にも、ここは自分が頑張るべき」と考えられる仕事だけをやる事にしているから、もうあまり迷う事はない。

さて私的な話はこのぐらいにして、本論に戻ろう。

この間、週刊誌の吊るし広告を見ていたら、「定年延長」に関する記事があって、「地位を追われ、給料も減り、昔の部下に使われる。それでもあなたはまだ働きますか?」と書かれていたので、私は少し怒りを感じた。私の答えは簡単で、「もしこんな事が気になるのなら、その人は働く必要はない。しかし、年金は払えませんから、生活が大変になるのは覚悟してくださいね」という事だけだ。

そもそも「地位を追われる」とは何だろうか? 「地位」なるものは、たまたま一時期会社から借りていたものなのだから、その時期が過ぎれば返すのが当然だ。誰かに使われる事を厭っていては、誰にも雇ってもらえないのだから、誰に使われるかについて贅沢など言えるわけもない。

しかし、日本人は、仕事の上での指揮命令系統(Reporting line)を主従関係のように考えてしまう傾向があるから、同じ組織の中で、或る日突然地位が逆転してしまうのは、やはりお互いに気まずいかもしれない。従って、第一次定年以後の第二の人生は、出来る限り同じ会社ではなく、別の会社で過ごせるような仕組みを早急に作るべきだ。

これは以前にも提言した事だが、似たような会社同士が協定を結び、お互いに相手方の第一次定年退職者を自社に迎え入れるようにすればよいのだ。これなら別に国に何かの法制を整えてもらう必要もないし、異なった経験を持った人達が一緒に働き、異文化が混ざり合う事は、企業文化に柔軟性を持たす上でも望ましい筈だ。組織内への外国人の迎え入れも同時に行えば、更に相乗効果があるだろう。