デフレの正体はITか?

松本 徹三

MITのエリク・プリニョルフソン教授の「機械との競争」という本の書評の形で、池田信夫さんが「デフレの正体はITだ」という記事を3月1日付で書いておられる。「粗雑すぎる」という批判を恐れぬ、池田さんらしい何時もの「決め付け型」の表題だが、大筋ではそんなに間違ってはいないと思う。

産業の実態についてはあまりよく見えておらず、金融政策や貨幣政策の事ばかりをいつも考えている経済学者や官僚、銀行家の一部には、「デフレは主として金融政策と貨幣政策の結果であり、従って、これを変えればデフレから脱却できる」と考える向きが多いのも当然かもしれない。


しかし、真の原因の大部分は、そんな事ではなく、「産業(生産性)の競争力」や「雇用のあり方」にあると私は思っている。従って、根源的にデフレを脱却して経済を成長路線にのせようとすれば、金融政策や貨幣政策だけでそれが可能になるとはとても思えず、産業構造や雇用体制の変革が必須であると思う。

勿論、「金融政策や貨幣政策に政治のトップが言及する」事によって生まれる心理効果が大きい事は、諸外国ではこれまでにも何度も実証されており、今回は日本でもそれが実証された。先ず投機筋が対応するから、為替や株価に大きな変化が直ぐに現れ、マスコミがこれを大きく扱うから、一般の生活者も何となく明るく前向きな気持ちになれる。これは決して悪い事ではない。

しかし、そんな事に浮かれて本質的な問題を忘れれば、いつかは得たものより失ったものの方が大きかったという結果になりかねない。実態に裏付けされない相場の上げ下げは、いつかはメッキが剥げるからだ。

アベノミクスのおかげで、日本人の閉塞感が若干でも少なくなり、外国人の日本に対する見方が若干でも前向きになれば、時間が稼げて、改革のきっかけも得られた事になるから、その功績は認めるべきであり、その事については、私もイチャモンをつける積りは全くない。

特に、外国の投資家の日本に対する見方に関しては、アベノミクスは確かにかなりの効果があった。常日頃から彼等があまり日本に注目してこなかったのは、日本人が無能であると思っているからでも、日本の財政が危なっかしいと思っているからでもなく、「政治は何も決められず、万事について対応が鈍い」と思っているからだ。安倍首相の大胆な発言はこの固定観念をある程度変えた。

アベノミクスによって日本の「経済破綻の確率」は残念ながらやや高まったが、外国人の投資家にすれば、日本の財政が本当に危なくなれば、素早く売り逃げればよいだけの事だから、それはさしたる問題ではない。

それよりも、大胆な政策を実行に移しそうな雰囲気の方が、彼等に取っては好材料だ。上がったものはいつかは下がり、下がったものはいつかは上がるのが相場というものの常だが、この変化が大きければ大きいほどプロの投資家は腕を振るえる。最後にババをつかむのは、調子に乗っていて逃げ遅れたアマチュアの投資家や、「損失を被った国のツケ」が回って来る一般の納税者と、ほぼ相場は決まっている。

さて、それでは、今本当に我々がやらなければならない事は何か? それは、デフレの真の原因である「競争力の低下」と「雇用体制の歪み」を一日も早く正す事だ。この両者は、実は表裏一体の問題であるように私には思える。そして、今盛んに言われている「成長戦略」とは、まさにこれを実現する事に他ならないと思う。

「機械との競争」の著者は、「IT技術の発達によって、人間がやるより安いコストで機械がやれる事が多くなったのに、その波に乗れずにこれまでのやり方にしがみついている『事務系』の人達のところで『過剰雇用』が生じ、この為に労働者の平均収入が増えず、これがデフレの原因になっている」としているが、これは、いささか問題を単純化しすぎている。こういう言い方をされると、「ITで置き換えられる事務系の仕事なんて、もうそんなには残っていませんよ」という反論が出てくるのも当然だ。

しかし、ここでITという言葉をもっと広くとらえて、「IT化に象徴されるような合理的(システム的)な仕事のやり方」と言い換えてみればどうだろうか、このようなやり方への切り替えが未だなされておらず、「旧態依然たるやり方がなおも大手を振って罷り通っている」実例は枚挙に及ばぬ程に多い。ITの扱いを苦手とする高齢者が支配的な地位に居座っている事の多い日本企業では、残念ながら、諸外国に比べてもそれが特に多いように思える。

ITの活躍分野を「事務処理」だと考える事が最も大きな間違いだ。決定権を持つ人達が、「IT化が効果を発揮するような、合理的な判断プロセス」に慣れ親しんでいて、「ITが可能にするタイムリーな情報の収集と分析」を日常的に行っている事や、決定の根拠に曖昧さが残っていない事(ITは曖昧さの処理が苦手)等が、産業の競争力強化の為には最も肝要であると私は考える。

別な見方をすれば、日本でこの様な企業がどんどん多くなれば、「過剰雇用」が行われる場所が少なくなり、平均労働収入は増える理屈だから、デフレは脱却できる事になる。

いや、これでもまだ単純化しすぎている様だ。私は企業人だから、どうしても企業の現場に残っている不合理性にばかり目がいってしまうが、国の規模で物事を考えるなら、もっと大きな「後進性」の残存が随所に見られるように思える。

まともに経営が出来ていなかった為に破綻した事業(職場)が温存されたり、既得権にあぐらをかいて生産性が極度に低くなっている業種が保護されていたりする事により、本来あるべき「労働移転」が行われていない事こそが、おそらく日本の慢性デフレの最大の原因ではないだろうかと思う。

安倍政権が本気でデフレ脱却を望むなら、この問題にこそ、これから全力で取り組んでほしい。