内田樹教授の寄稿「壊れゆく日本という国」について一言

津上 俊哉

本5月8日付けの朝日新聞オピニオン欄に神戸女学院大学の内田 樹 名誉教授が「(寄稿 政治を話そう)壊れゆく日本という国」と題する寄稿をしている。内田氏の文章は嫌いではないが、この寄稿についてだけは、一言言いたい。


 グローバリゼーションへの評価が一方的すぎる

  貿易や投資の障壁を多角的に削減する自由貿易の取り組みが世界経済を成長させてきたことは事実である。その障壁の除去、冷戦の終結に伴う国際貿易投資参加国の拡大、製造業、輸送、通信、金融面の技術革新などがグローバリゼーションの現象を生んだ。そのおかげで、世界中の途上国で何億人もが貧困や病気、無就学といった悲惨から解放されている「正の側面」はいっさい評価されないのだろうか?
  或いは、内田氏はグローバリゼーションというより、その根底にある自由貿易や市場経済原理を信じられないのかもしれない。
  しかし、3,40年前、日本のカメラやクルマは欧米に進軍して連戦連勝したが、競争に敗れたデトロイト等々の地では、失業者がたくさん生まれたのである。日本はその過程で豊かになった過去がある。当時は「グローバリゼーション」と呼ばなかったが、自由貿易や市場競争の産物である点で本質は同じである。
  内田氏は(歳はもう少し若いが私も)、そうして日本が豊かになった「上げ潮」時代を体験した世代である。氏が当時から「他人様の幸せを壊すような真似(輸出)はすべきでない」と唱えていたのであれば、筋金入りの反市場経済主義者として一貫していることにはなるが、そういうことはないだろう。かつて自由貿易体制のメリットを黙って享受しておいて、デメリットを受ける番になったら不平を言うのは、フェアな態度ではないと思われる。
  グローバリゼーションの「正の側面」は自国以外の地で起きるもので、そこで生まれる他者の幸せは己にとって不幸でしかない、というのでは不幸を味わう側の人は納得しがたいのも人情だ。しかし、グローバリゼーションの得失は、フェアネスという観点だけでなく、世界全体の見地から、そして日本にとっての見地からも、もっと公平な広い目で評価すべきだ。
  私はグローバリゼーションで雇用を失う先進国が、一方で後発国の成長による「トリクル・アップ」を享受できる「チャンス」はあるし、そのメリットは今後どんどん人の目に見えるようになると思っている。
  例えば、いま日本では、年々増大する貿易収支の赤字を所得収支の受け取りが埋めてくれている。グローバル化した企業がグローバル世界に「出稼ぎ」 に行くおかげで、日本はいまや投資収益で生活する国に変貌しつつある。その効用は評価しないのだろうか。日本企業がグローバル化を拒み、あげく貿易競争で敗退したら、貿易黒字も投資収益もない。内田氏はそれを「国民国家に殉じた潔い態度だ」とでも称賛するのであろうか。
  グローバル企業の例より身近に感じられる「トリクル・アップ」の例は、アジア諸国からの観光客の増大だろう。旅行収支は10年少し前には年間3兆円以上の赤字だったのが、最近は1兆円程度まで縮小してきた。豊かになったアジア諸国の観光客のおかげで、全国各地が潤うようになったのである。これを収支トントン、さらには黒字にすることはできないか。
  また、最近私のPCには中国人に東京のマンション購入を勧誘する大手不動産会社のネット広告がよく表示される。こういう海外からの「投資」も、もっと受け入れることができる。一方でグローバリゼーションによる利益の逸失が起きているのだから、日本はもっと周辺成長国からの「トリクル・アップ」を取り込む努力をすべきなのだ。

 昨今の排外主義台頭はグローバリズム側の洗脳操作なのか

  内田氏が「グローバル化と排外主義的なナショナリズムの亢進(こうしん)は矛盾しているように見えるが、実際には、これは『同じコインの裏表』である」と書き、排外主義的なナショナリズムをグローバル企業の利を謀るための「煽り」であると指弾している点も違和感を覚える。
  TPP、原発再稼働、英語の社内公用語化などの推進論者が「さもないと日本は生きていけない」と、ある意味でナショナリズムに訴えていることは否定できないが、排外主義的なナショナリズムの亢進は、グローバル化に対する拒絶反応として現れている側面の方が大きいはずだ。現に、海外ではWTO、IMFなどグローバリゼーションを体現する国際機関を攻撃する反グローバリズム運動が盛んだ。
  内田氏は「グローバル企業や推進派がTPPなどの政策を進めようとしなければ、排外的なナショナリズムを煽る必要もなくなり、動きも収まる」と考えているのであろうか。例えば、「内田さん、あなたもグローバリゼーションには反対の立場のはずだ。日本の伝統と暮らしの『いま』をグローバリゼーションから守るために、外国人に就業ビザを発給することを禁止したり、WTOからも脱退するよう政府に要求したりする運動に加わってくれ」と言われたら、内田氏は応ずるのであろうか。

 21世紀は人類社会の正念場

  愚考するに、21世紀の人類社会は非常に微妙で危うい局面に立たされている。グローバリゼーションと少子高齢化(※日本だけの問題ではない)が同時進行する中で、広汎な大衆の利益が削減されているからだ。とくに先進国では雇用の流失による所得の低下と少子高齢化により年金制度に生じた巨大な世代間格差が若い階層をダブルで直撃している。せめて受益側である途上国の支持が欲しいが、中国のような成功者たる国でも、受益の不均衡が「負け組」国民のグローバリゼーション不信感を増大させている。
  前述したように、グローバリゼーションは嘗てないほどの速さで人類の厚生の総和を改善させつつあるのだが、より広範な国々の、より広範な階層がそのメリットを感じられるようになるには、時間もかかるし、それを阻もうとする障碍をなくす努力も必要になる。別の言い方をすれば、いまのグローバリゼーションは、人々が受け容れられる以上の速さで進みすぎているところに問題がある。
  このグローバリゼーションと少子高齢化というダブル・ショックの同時襲来を持ちこたえることができれば、人類社会は新しい進歩の階段を一段登るだろう。持ちこたえられなければ、双六(すごろく)のX歩罰退に似た「リセット」が大なり小なり起きる。最悪は戦争で人口が何割も失われる事態だ。そこまで行かずとも、世界経済が深刻な状況に陥る可能性はもっと高いだろう。国際貿易・投資の自由化が「これ以上進まない」場合、世界経済は停滞するくらいで済むが、反グローバリズム運動で既に達成した自由化が逆行することになれば「停滞」どころでは済まなくなる。

 オピニオン・リーダーの努めとは

  内田氏はグローバリゼーションを禍々(まがまが)しく描く一方で、「では、我々はどうすればよいか」については何も述べていない。或いは、「国民国家の解体」はもはや避けようがないのだと達観しているのかも知れない。しかし、グローバリゼーションが本当に禍々しいものであるならば、人々が防衛と反撃の運動に立ち上がることは、あって当然の反応ではないのか。とくに子供を抱える若い世代は「いまを守る」ために立ち上がるかもしれない。「外国(人)の不正侵害に対する正当防衛」を主張する排外主義を、内田氏は如何なる論拠を以て否定するのか。
  この寄稿の最大の問題点は、何が正しいのか、苦しくても守らなければいけないプリンシプルなのかをはっきりさせずに、目に映る不幸を呪ってだけいることだ。何をなすべきかについて述べずに、終末論的な「国民国家解体」だけを予想するのはオピニオン・リーダーとしての務めを果たしていると言えるか。
  仮に内田氏が「共同体を破壊するグローバリゼーションは不正義だ。それが私のプリンシプルだ」と言うのであれば、闘えばよい。ただし、反グローバリズムの結末が世界と内田氏の共同体に最後何をもたらすかについて、突き詰めて考えてもらった上で。
  古き良き「国民国家」が解体されるのだとしても、新しい環境の下で、民族はその生を繋いでいかなければならない。その制約の下で最善の結果を得るにはどうするかを論ずるのがオピニオン・リーダーたる者の努めのはずだ。「どう頑張ったって押しとどめられない世界の潮流だ」と思うのなら、人々を悲観させ、下手すれば排外主義に走らせかねないような終末論だけ言うのは止めてほしい。
  この寄稿で酷くdisられているグローバル企業の経営者達だって、唯々諾々と株主利益のみに奉仕している訳ではない。地域社会や国内雇用への責任を考えて、呻吟しながらナローパスを見いだす努力をしている経営者はたくさんいる。そういう人々に比べて、こんなメランコリックというか、ムーディな言説を発表する内田氏は「お気楽」すぎるのではないか。
(平成25年5月9日記)