学校を殺す「君が代・日の丸」 --- ヨハネス 山城

2013年06月20日 15:12

教員というのはホンマにしんどい仕事や。何しろ、子供の将来に関して責任があるからな。それに、教員というのはホンマに気楽な仕事や。何しろ、子供の将来に関して責任ととらんでええのやからな。

暑さで頭ショートしたわけではない。両方とも真実やと思う。つまり、とり切れない責任を負っているということや。

教え子に接する時、それは将来のプラスになるのか、こんな態度でええのか、考え出したらキリが無い。短期的に悪いことが……実は長期的にも悪かったりする。困ったもんや。


ある生徒にやってうまくいった(特に偶然うまくいった)ような指導を、別の生徒にしたらたいてい失敗する。こちらの不純な動機(「うまいことしたろ」)が丸見えになる。最悪は、ドラマや映画の真似。金八先生の台詞をそのまま口にして、袋だたきにあった先公、日本中に山ほどおる。性根が据わってないのは、教壇に立つと丸見えになる。

ワシも以前、300人相手の授業という無茶をしていたことがあったが、自分のコンディションが面白いようにわかった。相撲で心体技というが、嫁はんと出がけに喧嘩したり、風邪気味だったりすると、いくら予習をして最新のネタを仕込んでいても、教室がザワザワとしてくる。逆に、心体技の調子がぴったり一致すると、水を打ったように静かに聞いてもらえる。

二十歳前後の半分大人を相手にしている大学でもこれなんやから、思春期のクソ難しいメンタルを背負った連中を見ている中高の教員は、ジャングルで生活しているようなもんやろ。一瞬の油断もならん。

ところが逆に、教え子の将来のことなんぞ興味ないで、と割り切ってしまうと、こんな楽な仕事はない。こういう冷たいオーラをバシっと出していると、問題のある生徒は向こうから寄ってこんようになる。面白いもんで、ここでも性根が据わっていることが大事や。

同僚との距離もどんどん空いてくる。それでも一応プロやから、教科書をなぞって、ひと通りの最低限の仕事をして、時間になればさっさと帰る。

精神的な仕事というのは、手を抜く余地はいくらでもある。査定でこれを排除するのはかなりむずかしい。大勢の画家が巨大な一枚の壁画を仕上げているアトリエに、カンバン屋の職人が乱入するようなものや。冷たい視線を浴びながら、バリバリと下らない線を入れてサイナラや。

おそらく、ほとんどの教員は「聖職者モード」と「サラリーマンモード」との間で、揺れながらバランスを取っているんやろうと思う。真面目だけやと「シンドさ」で、楽ちんだけやと「ムナシさ」で、精神的に保たないのとちゃうかな。

このスイッチは個人差はあるが、たいてい数分単位で切り替えているんやろ。嫌々、教壇に上がったサラリーマンが、教え子の顔を見ているうちに聖職者に化ける。職員室のドアを開けたら、汚い中年サラリーマン。あんたは変身ヒーローか。

授業中に、刃物を持った狂人が乱入してきたら、ほとんどの教師は真っ先に立ち向かう。老若男女、文系理系右左を問わず「聖職者」スイッチが入るんやろな。大教室はともかく、ゼミというような場でなら、ワシもやると思う。誰や、「乱入するほうが似合うてる」と言うやつは。

そやから、教育のパーフォーマンスを上げるカギは、いかにして教員たちの「聖職者スイッチ」を長くオンに保つかにある。学校というところは、これを機能させるための、伝統的なカラクリが満載や。

たとえば、学校教員はお互いを○○先生と呼ぶ。そやけど年上の同僚から、山城先生と呼ばれるのはなんか違和感がある。「お前みたいな老いぼれの生徒はおらんで」と言い返したくなるが、学校の中では、先生というのは相対的なものではなく、絶対的に先生や。誰にとっての師匠というわけではなく、校門を一歩入ったら常に先生や。

毎年、代わり映えのしない学校行事の企画会議が延々と続くのも、自分らが学校のことを決めている、という気分を壊さんようにするためや。

プロ教師の会の連中や、内田樹センセ、なんかは、少々のウソや矛盾には目をつぶってでも、この構造を大事にして学校制度を機能させようとしている。不合理な話やけど、これは仕方のないことやと思う。

言いにくいことやが、学校、特に中学高校というところは、ややこしい人間が集まりやすい。Jリーガーになれなかった体育教師、オケのオーディションを落ち続けた音楽教師、かつてはノーベル賞を目指した理科教師、文学賞に売れない原稿を送り続けている国語教師。中途半端な専門家を安く集めようとするから、こういう顔ぶれが揃うことになる。

そやから教員といのは、結構、傷つきやすい。すぐにすねる。固定サラリーマンモードに引きこもってしまう。

君が代・日の丸が争点やったころは、ある意味で良い案配やった。忙しい年度末、国家観教育観を夜な夜な熱く会議する。もちろん聖職者モード全開や。強硬派の校長が突然転任になったりしたら、リセットでまた一から議論を楽しめる。

ところが、実施を強制した上で起立斉唱まで強権で求めてしまうと、反対派はもちろん、超国家主義者の教員もシラけることおびただしい。教員会議では日本の国柄と愛国心の効用を説き、当日、冷たい視線を浴びながら浪々と君が代を歌う快感を、奪われてしまったわけやからな。腹の底からやりたいことを強制されるのは、嫌なことを強制されるのと同じぐらい気分が悪い。

君が代・日の丸に限らず教員の管理強化は危険な賭や。学校丸ごと、千代に八千代に万世一系のサラリーマン集団にしてしまう恐れがある。ハンバーガーショップのバイトのように、完全に細かい管理ができるならともかく、いきなり一対一で生徒に向き合う場面の多い教員で、それをやるのは現実的ではないやろ。

都立高や関西の公立高校の進学実績が、管理強化で伸びているようにも見えるが、一部のエリート公立高には、まだ管理の魔の手が伸びていないことが大きい。こういう状況で、中堅・底辺校を締め付ければ、上位校のプライドがくすぐられて、格差は開くが実績は上がる。それが証拠に、そろそろ成績が伸び悩みはじめよったで。丸ごとサラリーマン化の影響が出てくるのは、これからのお楽しみというわけや。

逆に、私立名門進学校ではスイッチを入れるカラクリは必要ない。偏差値70がずらっと並んでおったら、イヤでも教師の背筋が伸びる。なにせ、サラリーマンモードを見抜かれた瞬間からゴミ扱いやからな。

キャバクラのお姉ちゃんみたいなのに、一次方程式を教えているワシとしては、ある意味うらやましい。むこうさんかて、オッサンの相手しているんやから、サービス料がほしいやろ。お互いに無駄働き、こっちは聖職者スイッチがさび付いてくる。

学校というのは、結構きつい職場やのに、ブラックスクールという言葉は聞いたことがない。聖職者として頑張れるだけ頑張って、サラリーマンモードに切り替えてサボる。どっちにしろ、こき使われているという意識は出てこんやろ。

ベテラン教員にウツが増えているのは、ガキの質の低下でスイッチングが難しくなっているせいやと思う。逃げないとアカン場面で、昔の自信からスイッチを入れてしまい、空回り・焦げ付き、というパターンやな。

こういう教員のスイッチ機能を維持しながら、君が代・日の丸の実施率を上げる、ええ方法を教えたろか。簡単な話や。禁止してしまえばええ。一律禁止では芸がないから、不祥事があったり学力調査の順位が悪かったりした学校の斉唱権・掲揚権を剥奪する。コツは、斉唱・掲揚の定義をわざとアイマイにしておくこと。

禁止校の教員は、会場になんとか日の丸を持ち込もうと知恵を絞る。ゲリラ的に生徒に君が代を歌わせるところもあるかも知れん。実施校は実施校で、辞退を提案するヤツが出てくる。どっちにしろ、聖職者アドレナリンがフル放出。四月早々、バリバリやで。

どっかの教育委員会、やってみてくれんかのう。

ヨハネス 山城
通りがかりのサイエンティスト

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