電気事業者を排除した電気事業改革は空疎である

森本 紀行

政策として重要なのは、脱原子力ではなくて、脱原子力の方法である。産業政策的に必要だからこそ国策として行われてきた原子力発電である。脱原子力は、産業政策全般における電気事業政策の抜本的転換を意味する。その大きな構想抜きでは、脱原子力は空疎である。


政策は、大きな課題から系統的に派生的な課題へと論理的に配置しないと、実現可能性が希薄になる。もしも脱原子力発電を科学哲学的な思想信条の問題として政策課題にするなら、その経済的技術的な意味における実現への道筋を示さないといけない。それができないなら、実現不能な無責任な放言になるか、無策のまま実現を強行すれば、電気の安定供給を危機に陥れ、廃炉の安全性も保証できないような危機的事態を招くだけある。

原子力事故の原因については、少なくともこれまでの調査報告等によれば、原子力技術自体の問題ではないことになっている。そうではなくて、その技術制御にかかわる人的組織の問題とされているのである。はっきりと人災であるともいわれている。ここについての抜本的改善策こそが問題なのだ。仮に、脱原子力を実現するとしても、廃炉までは稼働させなければならず、廃炉自体にも、経済的負担や技術者の確保などの大きな困難な問題がある。代替電源の開発に要する巨額な投資資金の確保や、開発費用の電気料金への転嫁の問題など、とにかく多数の困難な大問題が絡んでいることなど、いわずもがなである。

直接的な原子力の問題だけではなくて、それに関連した電気事業のいわゆる自由化という名の構造改革についての総合的な展望を示すことが、政治の責任として求められているということである。しかし残念ながら、政権与党も含めて、どの政党も、何らの具体像を示せないなかで、脱原子力だけがいわれている。ひどすぎないか。

政治における電気事業政策論議は、例えば、脱原子力の方向性、電源構成の多様化に伴って発電事業者の参入を容易にすること(いわゆる発送電分離を含む自由化)、電源構成の転換が電気安定供給に影響を与えないようにする緩和策、逆に新エネルギー基盤への巨額な投資が経済成長の起爆剤になるような産業政策の方向性、それくらいにとどまる。

この先の高度な技術論は、行政機構の能力の問題である。いわゆる霞が関の官僚の問題である。ところが、霞が関主導からの脱却ともいわれている。では、誰が実践的で実務的で現場経験に裏打ちされた具体的政策立案をするのか。おそらくは、民間を動かすしかないということであろう。行政組織を通じて民間に働きかけることで、官主導の官民関係を、政治主導によって民主導の民官関係に転換するということなのであろう。ところが、電気事業は、現にそうなっているではないか。原子力政策が東京電力を頂点とした電気事業連合会体制によって担われてきたように、電気事業政策の全体が、電気事業連合会体制によって担われてきたというのが実態である。

電気事業政策の結果として、現在の電気事業連合会加盟10社による地域独占が形成されたのだから、最初は官主導の体制だったのである。しかし、それは、もはや歴史の問題にすぎない。現実としては、原子力発電と同じように、ひとたび体制が確立した段階で、官も手を出せないような民主導になってしまっている。もはや官には経験・技術・知識の蓄積がないのですから、どうしようもない。

例えば、自由化を巡っては、有名な発送電分離の問題があるが、その高度に技術的な問題について、どの政治家も、全く理解してはいないであろうし、おそらくは、政治家だけでなく電気事業連合会の外の人には、経験もないのですから技術的なことはよくわからないであろう。

単に、多数の発電事業者が生まれても、送電網をもたなければ、電気が売れないので、事実上の参入障壁になる、だから、送電網の公共財化が必要である、こまでは政策論としてはいい。その先の技術的な議論は、行政庁なり、民間事業者の問題である。行政組織なり、民間組織なりを動かせなければ、政策の実現はできない。さて、電気事業については、電気事業連合会を動かすしかないではないか。

ところが、連合会は、当然であろうが、発送電分離には積極的ではない。しかも、連合会は、発送電分離によって予想される弊害については、高度に技術的な論証をおこなうことがでる。連合会は、連合会の外の新規事業参入者とはもちろん、監督官庁と比較してさえ、圧倒的な情報の優位のうえに立っているのである。

この構図は、原子力発電と同じである。東京電力の情報優位のもとでは、事故は防げなかった。ならば、電気事業連合会の情報の優位のもとでは、電気事業改革は容易ではない。さて、政府は、電気事業改革に反対の電気事業連合会を動かして、電気事業改革を推進しなければならないが、この組織を動かすことができるのか。役人に対するような指揮命令は使えないのだが。

政府が東京電力を強引に国有化したのは、国有企業である東京電力を上手に使う以外には、電気事業改革はあり得ないからである。しかし、東京電力は、今、弱体化の極にある。国有化にもかかわらず弱体化したのか、国有化によって弱体化したのか。いずれにしても、とても、電気事業改革の推進者にはなれそうもない。

私は、東京電力悪者論にも、国有化にも、断固反対であった。独立民間企業としての東京電力の自己革新に期待したのだ。革新の担い手は人だからである。東京電力悪者論や国有化は、電気の安定供給に関わる東京電力の人々の誇りを破壊することで、結局は、電気事業改革の担い手の士気を殺ぐ。むしろ、東京電力が事故によって自律的に覚醒し、政府や国民との新しい関係の構築に向かい、原子力損害補償、事故を起こした発電所の安全な廃炉、電気安定供給、この三つの使命に誇りをもって取り組んでいくことを期待すべきではないのか。私は、今でも、同じ気持ちをもっている。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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