「ビュリダンの驢馬」と経営の極意

2013年08月08日 09:00

ジャン・ビュリダンは13世紀のフランスの哲学者である。このビュリダンの名に因んだ有名な哲学上の難問が「ブリダンの驢馬」である。

一頭の驢馬を挟んで、左右に完全に等しい質と量の秣が、しかも完全に等しい距離をおいて、置かれている。全く等しいという意味は、左右の秣を比較して優劣をつけることができないということである。つまり、驢馬にとって、右の秣を食べるか、左の秣を食べるかの選択の根拠がないのだ。故に、驢馬は秣を食べることができずに餓死する。


普通の人には馬鹿げた詭弁だ。誰でも考えるように、この驢馬、餓死する前に両方の秣を食べてしまうであろう。その際の順序は、餓えた驢馬にとって、どうでもいいことだ。「どっちから食べようが俺の自由だ」という低俗な話にもなる。

しかし、哲学的には難しい問題を含んでいる。もしも、驢馬が右の秣を食べとき、右を選択する理由が必ず存在するならば、右を選択することに驢馬の選択の自由はないことになる。全ては、必然的な摂理に従った展開にすぎなくなる。一方、選択の根拠がないにもかかわらず、一方を選択するとしたら、選択の根拠がないからこそ、選択の自由があるということになる。

確かに、論理的な根拠に従って選択できるならば、選択は論理的必然であって、自由意志によるものではない。論理的帰結の反対を敢えて選択する天邪鬼も、アンチ巨人が巨人ファンの変形であるのと同じような意味で、拘束された選択であって、自由な選択ではない。では、自由な選択とは、根拠のない選択である。

さて、人間社会における選択では、選択の帰結を客観的に正確に予測することができないので、論理必然的選択は成り立ち得ない。多かれ少なかれ、餓死する前に右か左を、エイやと選択するビュリダンの驢馬と同じように、論理を超えた決断をしなければならないのだ。

企業経営において、経営の仕事とは何であるかといえば、このような意味での決断にあることはいうまでもない。経験則から知られる合理性や蓋然性に基づく意思決定は、現場の判断であって、経営上層まで上がることはあり得ない。過去からの連続性に基づいては判断できないことについて決断することが、経営の最も重要な役割である。過去の連続を越えることを革新というならば、革新こそが経営の役割といわざるを得ない。

過去の事例で予測されるようなことにも、将来への再現性については、それなりの不確実性がある。ましてや、革新においては、やって見なければわからないのだから、賭けといってもいいような大きな不確実性が伴う。その賭けが経営の意思決定である。しかし、ひとたび、革新を始動させれば、そこから連続的に生起する経営課題については、過去からの経験が十分役立つはずだ。だから、革新を成功へ導ける。その成功体験が、つぎの革新へとつながるのである。しかし、革新の原点は賭けである。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
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