「十三人の刺客」。見るまいと思っていたのだが、BSでオンエアされていたのを見てしまいました。2010年、三池崇史監督、役所広司主演作品。1968年に工藤栄一監督、片岡知恵蔵主演で撮られた同名の作品のリメイクです。
モノクロ映像がカラーになってもリアリズム性を失いません。クライマックスの集団乱闘劇は、53人から300人に増えて、しかけもアクションも派手になっています。大した出来だと感服します。
三池監督はその翌年、市川海老蔵主演「一命」を撮りました。これもリメイク。1962年、小林正樹監督、仲代達也主演「切腹」がその基です。素晴らしい作品ですが、ぼくは静謐なモノクロの「切腹」が好きだったため、なぜぼくは改めて「一命」を見るんだろう、という問いが残りました。新作の「十三人の刺客」を見るまいと思っていたのも、そのせい。68年工藤作品がメッチャ好きでしたから。
なぜ見る、と問いが残ったのは、その前に森田芳光2007年「椿三十郎」、織田裕二主演、を見たせいもあります。1962年黒澤明監督、三船敏郎主演の脚本を一切変えることなく再映画化したもので、リメイクというか、カラー版コピーというか、出演者に特段の思い入れがないぼくは、何てものを見てしまったんだ、同じ時間使うならもう一度クロサワ見ればよかったというざわわだけが残ったのです。
同じリメイクと呼ばれるものでも、三池監督は2005年、「妖怪大戦争」を撮っています。1968年公開の大映作品と同名です。でもこれは時代設定・登場人物・筋立て等が旧作と全く異なっていて、リメイクというのとは違う。こちらは創作した作品として、すんなり見ました。
1900年と2008年に同じ中原俊監督が撮りながら、内容が違う、「櫻の園」という例もあります。1954年の「ゴジラ」を1998年にリメイクしたという「GODZILLA」もがんばりましたが、ゴールデンラズベリー賞の最低リメイク賞の栄誉に輝いています。
これらは映画から映画にリメイクしたものですが、メディアを変えたり、表現ジャンルを変えたりするものも数多くあります。メディアを変えるものには、テレビドラマを映画にしたり(スパイ大作戦→ミッションインポッシブル)、映画をドラマにしたり(白い巨塔)、テレビアニメを映画にしたり(東映まんがまつり)。表現ジャンルを変えるものには、マンガをアニメにしたり(多数)、アニメを実写にしたり(キューティーハニーとキャシャーン)、アニメ映画を芝居にしたり(ライオンキング)、いろいろと。
こうしたリメイク、特に最近の、世界に名が轟く作家がリメイクに打ち込む意味って何なんでしょう。アニメでもゲームでも、一発ヒットを当てて、vol.2、vol3、とシリーズが作られていく、その後続は、ビジネスの事情ってことで割り切れるし、それもあくまで創作です。対してリメイクは創作を否定する制作なので、そこに作家が何を見出しているのか、気になります。
技術を立証したい、という動機はあるでしょう。古い先行作品を新技術で作り直す。モノクロをカラーにする。スタンダードサイズをワイドにする。特撮にCGを導入する。過去の作品に新技術を適用することで、技術の良さを見せる。技術者はやってみたいでしょう。でも、創作者の動機にはなりにくい。
ビジネスの要請もありましょう。評価が定着した先行作品であれば、役者を変えれば当たる、という色気。椿三十郎がその例でしょう。興行収入60億円を見込んでいたそうです。実際には11億円だったそうです。
その点、フランクフルト大学日本学科のゲプハルト主任教授が言ったことを思い出します。「昔は日本の役者は顔ができていたわよね、今の子たちはみんなダメね、顔がユルくて。」今ユルいのはわかりますがね、かつて顔ができていた、ってのは例えば?「そりゃ中村伸郎とか、山茶花究とか。」たしかにね。
(ちなみにゲプハルト先生は水上勉(小説)→川島雄三(映画)「雁の寺」のあった相国寺にむかし住んだこともある快女で、やりとりは日本語です。めっちゃ飲みます。フランクフルトの酒場でぼくの大好きな焼き豚足が出てきたから喜んでいると、「バーバリアンの心づかいだよ」とおっしゃった、その言語感覚に参りました。)
翻訳リメイク、もあります。1954年黒澤明監督「七人の侍」に感激したユル・ブリンナーが1960年に「荒野の七人」を作ったり、1996年周防正行監督「Shall we ダンス?」を2004年にピーター・チェルソムが「Shall We Dance?」に変換したり。これらもビジネス要請ですよね。作家性のものではない。
じゃあ何なんだろう、リメイクって。名作を前にして、自分だったらこう作ったのに、という、制作者としての鑑賞行為が高じて、制作欲にまで高まることがあるってことなのかな。それが純粋な自作を創ることを上回る場合があるということなんでしょうか。
あるいは、「演奏」に近い? それはありますよね。バッハやワーグナーを名だたる指揮者・演奏家たちがそれぞれの解釈で演じ続ける。歌舞伎でも、「東海道四谷怪談」を音羽屋が伝え続け、「義経千本櫻」を猿之助や勘三郎や海老蔵が演じる。落語の「代書」は桂米團治、春團治、枝雀、小米朝、小南へと継がれる。
元の作品があって、それをそれぞれの解釈と技法によって表現する。それぞれに創意があり、工夫があり、創造があります。映像作家のリメイクは、それに近いんでしょうか。だとすれば、わかります。レシピがあって、そこに自分の作家スパイスを振って、さし出す。オレ風の麻婆豆腐とか、我が家のオムライス、みたいなものですかね。
気になっているのは、そこなんです。
映画は、伝統芸能になりたいのか、と。周りは、それを加速したいのか、と。
クラシック音楽にしろ古典落語にしろ、できあがった伝統を維持し、できれば発展させる、だからこそ古典であるわけで、そこに価値もあります。現代性と流行に立脚する、変化を信条とするポップカルチャーと対立するものです。
コピーバンドがロックから一線を画されるのは、ロックが伝統芸能になりたくないから。解釈や演奏より、創作を旨とするから。
ぼくはNPO「CANVAS」を十年前に設立して、子どもの創造力と表現力を高める活動に関与してきました。それは、絵や音楽をコピーしたり演奏したりする技法を身につける、ナントカ教室とは太い一線を画し、とにかく創る、ことを広めようとするものです。一発ギャグでも戦いものでもオゲレツでもいいから、創り出すことに力を込めてきました。
立派なリメイクより、くだらねー創作。名曲の熟達した演奏より、稚拙なオリジナル曲。よどみない寿限無より、意味不明の創作どつき漫才。
したがって、きちんとした美術教育や音楽教育のかたがたからは太い一線を画されてしまうのだと思います。でもそれでいいのです。
デジタル技術は、コピー技術です。全てをそっくり複写し、永遠に反復します。修正を施して、素敵なリメイクをわけもなく達成します。同時に、デジタル技術は、創作技術です。誰もが新しいものを生みだし、誰もがクリエイターになれます。ぼくは後者に着目して、「創る」ことに気合いを入れているのであって、もちろん前者の価値も高く評価しています。
でも、現時点で、本来ポップカルチャーであっていいトップ創作者のかたが、リメイクやコピーに注力するのって、どうなんだろうね、と思うわけです。森田監督が椿三十郎を撮ったのは亡くなる4年前で、もったいないな、と思うわけです。
「Shonen Knife Super Mix」。1997年、少年ナイフの作品を小山田圭吾さんや石野卓球さんらが「リミックス」してくれたものです。一種のトリビュートですね。その中の一曲、「インセクト・コレクター」は、オリジナルの歌詞や曲にぼく自身も関わったので、とても強い思いのある作品。恐れ多くもコレを坂本龍一さんにおずおずとリミックスをお願いしたところ、快諾!それで仕上がったものは、原作を粉砕し、散乱したその破片を紡いで編み上げられた全くのオリジナル。リ・メイク、とはこういうことか、とうならされた、宝物です。
今、その坂本さんも参加している「GETZ/GILBERTO +50」を聴いています。スタン・ゲッツ、ジョアン・ジルベルトがボサノバを確立した名盤から50年。日本人アーティストによるトリビュートです。元の名盤をこの上なく敬い、あふれる愛情を抑えつつ、適度に崩し、適度に創っています。リメイク、ですね。とてもいい。でも、ぼくはなぜこれを聴くんだろう。同じ聴くなら名盤を聴けばいいんじゃないか。理屈ではそうです。これまで長々と申してきたことからすると、そういうことです。が、そんなことどうでもよくなるぐらい、+50もいい。
そうなんだな。作品の出来によって、理屈なんか吹き飛んじゃう。だからコンテンツは面白い。
一口にリメイクと言ったって、ほぼコピーから、ほぼ創作まで、幅が広くて、出来・不出来の上下もあるので、一概にほめたりけなしたりできず、こうしてグズグズしています。こうしてグズグズ思うこと、好きです。
という結論でどうもすみませんでした。
編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年10月3日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。