「尾崎豊はバイクを盗まない」いい加減な若者論に死を 真実に迫る3冊

常見 陽平

「君は尾崎豊を知っているか?」

いかにも朝日新聞の編集委員が成人の日に社説で書きそうな、気持ち悪い書き出しですまない。尾崎は本当に歌詞にあるように、バイクを盗んだり、校舎の窓ガラスを壊して回ったのだろうか。それに若者は皆、共感したのか。そんなわけがない。ただ、私たちは、実はこのレベルで若者を誤解していないだろうか。


尾崎豊について決して詳しくはないが、それなりに聴いていた。学生の頃も、サラリーマンの頃も、カラオケに行けば尾崎豊を歌い出す者が多数いて、「15の夜」「卒業」「I LOVE YOU」を始め、代表曲はそれなりに聴いたし歌った。私自身、宴会では「盗んだバイクを買わされる」「夜の会社窓ガラス壊して回った」「きしむベッドの上でバク宙失敗」など、替え歌を披露して笑いをとったこともあった。ブラックユーモアだったが、みんな笑ってくれたし、私もそんなに悪い気はしなかった。

それは、どうでも、いい。

ただ、大人や社会への反発、不信、抵抗を歌った彼だが、歌詞がすべて実体験とは限らないだろう。当たり前だが、当時の若者の「誰もが」バイクを盗んだわけでもない。あくまで歌詞の世界である。

さらに言えば、当時の若者の「誰もが」彼を聴いたわけではない。オリコン1位を取ったアルバムが複数あるものの、彼の熱や主張は「誰にでも」受け入れられたわけではない。「15の夜」が収録されたデビュー作『17歳の地図』は当初、セールスは振るわなかったという。ただ、あとでなんとなく聴いてみたり、カラオケで知ったりしたわけである。まるで、私のように。そして、「尾崎世代」だとくくられる。

若者論というのは実にいい加減なもので、「居酒屋での各世代の自分語り」が基準になり、「最近の若者は」的な話になる。奇妙な言動が切り取られ、大きく取り上げられたりする。

この夏は、暑すぎたからか、たくさんの若者がアルバイト先の冷蔵庫に入った、と報じられたわけだが、本当は何人がそんな行動をしたのかは分からない。分かったところで、その世代の0.01%以下くらいだろう、どう考えても。

「若者討論番組」なるものでは、「若者代表」なる人たちの意見がひとり歩きしたりもする。しかし、彼らが代表でも代弁者でもないことに、人々はなんとなく気づいている。中には、メディアに期待された言動を演じる「御用若者」なんて人もいる。

こういう人たちが「若者のことは、若者にしかわからないんです」なんてことを叫んだりする。読者、視聴者の感動は呼ぶかもしれないが、この発言は、あっさりと社会科学を否定していることにももっと注目した方がいい。若者の味方のふりをする「若者擁護論」も面倒だ。

そんな中、ここ数ヶ月で、不毛な若者論に終止符を打つ本が数冊登場したのは、偶然のような必然であり、一服の清涼剤である。私が、自信を持ってオススメできる3冊を取り上げる。



後藤和智氏の『「あいつらは自分たちとは違う」という病: 不毛な「世代論」からの脱却』(日本図書センター)は、1960年代くらいからの約50年分の若者論を振り返り、検証した労作であり、貴重な仕事である。

著者の後藤氏は『ニートって言うな!』(本田由紀氏・内藤朝雄氏との共著 光文社新書)、『お前が若者を語るな!』(角川oneテーマ21新書)などで知られる著者だ。この本は5年ぶりの商業出版だ。

約50年分の若者論の変遷を俯瞰してみると、あることに気づく。それは、科学的な根拠なく若者が論じられ続けてきたということである。「今の若い世代は自分たちとは違う異常な世代だ」「自分たちの世代は上の世代とは違う特殊な世代だ」そんな論が根拠もなく繰り返されてきた。しかも、それが世論だけでなく、政策にも影響を与えているのだからたちが悪い。

著者の若者論に対する知識は半端ない。今回も膨大な資料の中から、各時代の代表的な論を見事に拾い上げている。実に丁寧なつくりになっている。

もっとも、これまでの後藤氏の本とはだいぶ印象が違うかもしれない。いい加減な言説をメッタ斬りにするというよりも、絶妙な距離感で考察している。深くなっている。

メディアに流布する論に踊らされないように、何度もこの本は読み直されるべきである。

夜の経済学
飯田 泰之
扶桑社
2013-09-26



飯田泰之氏、荻上チキ氏による『夜の経済学』(扶桑社)も、事実に真摯に向き合った労作である。世の

タイトルから想像されるとおり、この本は、性風俗などを考察対象にはしている。ただ、実はそれは全体の半分程度であり、その他に、学歴(学校歴)による幸福度の違い、生活保護の実態、流言とデマなども考察の対象に入れている。

触れづらいテーマに、斬りこんでいくのは社会学のお家芸であり、やるべきことの一つではあるのだが、これまた我が国においては、いい加減な観察に解釈をくわえ、理論をくっつけたレベルのものが「社会学」と呼ばれてしまっているのも現実だ。

本書は地道な調査と、統計を駆使しつつ、対象との絶妙な距離を取りながら真実に迫っている。ここでの思考するプロセスは、研究者やジャーナリストを目指すものはもちろん、普通のサラリーマンにも十分に役立つものだろう。

本当はどうなっているのか?これに対するこだわりが、社会から失われていないか。タイトルから、やや下世話な本だと誤解されたり、妙な期待をしてしまうかもしれないが、事実とどう向き合うかをこの本は教えてくれる。

1995年 (ちくま新書)
速水 健朗
筑摩書房
2013-11-07



速水健朗氏による『1995年』(ちくま新書)は常識、思い込みを上手く手放した一冊だ。

1995年は歴史的転機だとよく言われる。なんせ、阪神・淡路大震災に、地下鉄サリン事件が起こった年であり、戦後50年の節目の年である。

・・・などという、テンプレ化した説明文をいったん上手く手放して、1995年を政治、経済、国際情勢、テクノロジー、消費・文化、事件・メディアという切り口で、丁寧に振り返っている。

阪神・淡路大震災や地下鉄サリン事件のインパクトがあまりにも大きかったからか、忘れていることがたくさんある。

例えば、この年は自社さ連立政権で村山富市氏が首相だった。東京都知事選では青島幸男が当選した。ジョブスが逝去した後、Appleの低迷が伝えられるが、最も低迷というか迷走していたのは1995年頃だった。「Windows95が発売されてインターネット時代が到来した」というのだが、初期のパッケージにはブラウザがセットされていなかった。週刊少年ジャンプのピークも、『新世紀エヴァンゲリオン』が始まったのもこの年だった。

この年が、歴史的転機だったことはどうやら間違いないが、人間の記憶というものは嘘をつく。大事なことを忘れてしまう。「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」は岡崎京子の本のタイトルだが、まさにそんな感じだ。

1995年という年の歴史を横に見る取り組みは興味深い。もっとも、「もっと読みたい」という読後感になったのもまた事実ではあるが。

対象との絶妙な距離を取りつつ、読者が読みたいことに真摯に答えていく速水健朗氏は貴重な書き手である。

この3冊は、事実との向き合い方を教えてくれるし、若者論、世代論のウソに気づかせてくれる。私の新作もそんな取り組みだったはずだが、この3冊に比べてまだまだ努力が足りないと感じた次第だ。

というわけで、若者に対する思い込みを上手く手放し、事実と向き合おうではないか。