歴史のIFを考えるのも、意義があるかも

松本 徹三

日韓併合に関する歴史認識の議論をしていると、「もしも日本が行動を起こさなかったら、ロシアが必ず韓国を支配していただろう。だから、日本が行動を起こしたのは正しかったのだ」という議論が必ず出てくる。前半は事実関係の推測をしているものであり、後半は「正邪」についての評価をしているものだから、元々異質のものが混じり合った議論だが、「もしも(IF)」と問いかける事によって、その後の歴史の帰趨を推測してみる事は、今後の議論を深めていくのにも結構役立つかもしれないので、今回はそれをやってみようと思う。


「歴史にIFはない」という言葉があるが、これは「済んだ事は変えられない」という意味と、「それをやり出せば、何千通りもの歴史を考え出さねばならないから、きりがない」という意味の二つがある。しかし、二十通りや三十通りの歴史なら、色々思い描いてみるのは面白いし、その中から色々な示唆も得られるだろう。勿論、私の場合は、世の中の多くの方々とは異なり、「自分がこうあって欲しいと思い描く姿」を前提にしてStoryを考えるような事は絶対にせず、あくまで客観的な力学を考察してStoryを考えていくので、その点は信頼して頂きたい。長くなるが、難しい話ではないので、物語として楽しんで欲しい。

今回は、取り敢えず、時を幕末まで遡り、「もしも、坂本龍馬などの奔走も空しく、薩長同盟が紙一重のところで不調に終わり、相当の時を経てからやっと成立していたら」と問いかけてみたい。この場合は、幕府勢力と勤王勢力の力は相当長期間にわたって拮抗し、その為に熾烈な内戦が長期化し、維新政府の成立は少なくとも十年程度は遅れただろうと思う。そうなると、日本には大陸に食指を延ばす余力はとてもなく、当然の帰結としてロシアは無人の野を行くが如く南進し、日本に力がつく頃には、既に満州と朝鮮を手中に収めていただろう。こういう事態を前提として、その後の歴史を考えてみたい。


この仮想の歴史では、日本は、朝鮮南部の鎮海湾に強力な軍港を建設したロシアの脅威に常に怯えていなければならず、英国の支援を受けて海軍力を徹底的に強化しただろう。しかし、その一方で、活躍の場を大陸に求める事が事実上不可能になった陸軍は、多額の予算を獲得するのも難しく、かつての元寇の役の時の如く、ひたすら外国軍の上陸に備えての専守防衛の為の陸軍になっただろう。 従って、その後も長期にわたり、軍の中枢部では概ね海軍が主導権を握り、精神力以上に物量を重視する事になる一方、日本の政治が陸軍に振り回されるような事態は遂に最後まで生じなかったと思われる。

当時の日本には朝鮮半島に上陸してロシア軍と雌雄を決する理由もなければ実力もなく、またロシアにしても、日本列島に上陸して、日本軍のみならず米英とも事を構える理由はまったくなかったから、日露戦争は起こるべくもなかった。結果として、日本は軍事費を大幅に節減出来たのみならず、第一次世界大戦で漁父の利を得た事には変わりはなく、短期間のうちに相当の経済力を築く事が出来た。実際問題として、日本が日韓併合や満州国の経営で得た経済的な利益は結局のところは殆どなかったのだから、経済的にはこの方がはるかに良かった筈だ。

しかし、この歴史でも、唯物史観が予言した「歴史的必然」は矢張り生じ、ポルシェヴィキ革命は瞬く間に極東地域にまで波及した。朝鮮半島でも、ロマノフ王朝との束の間の蜜月を楽しんでいた旧大韓帝国(李王朝)の王族や高級官僚は、モスクワから豊富な武器弾薬を与えられた「革命軍(労農勢力)」に一気に駆逐され、朝鮮半島全域は、瞬く間に「ソビエト連邦の一翼を担う朝鮮人民共和国」の支配下におかれた。旧体制に関与していた人たちは殆どが殺され、皇帝を含む一部の王族と高級官僚だけが辛うじて身一つで釜山から日本に逃れた。

ところが、ここで歴史は大きく転換する。折からの不況で庶民の不満が高まっていた日本では、政府は共産主義革命の日本への波及を極度に恐れていた。その一方で、これに先立つ好況に支えられて急成長した経済力を背景に着々と増強してきた「海軍力」に、日本は大きな自信を持っていた。この為、「この機会に、朝鮮半島に迫ってきた共産勢力を一気に壊滅させ、同時に国民の不満を解消させる」事を考えた日本政府は、「日本に亡命してきた旧大韓帝国の皇帝を支援して、朝鮮半島における王政復古を実現する」という「大義名分」を絶好の口実として利用した。

日本政府と統帥部は、朝鮮人民共和国成立後も数ヶ月間は努めて平静を装い、日本に亡命政権を作りたかった旧大韓帝国の王族たちも、東京ではなく京都に留めて悠長にもてなし、日本に彼等の反攻を支援する意志がないかのように韜晦したが、水面下では極秘裏に周到な準備を行っていた。

日本海軍は辛抱強く機を窺い、ソ連が帝政ロシアから無傷で引き継いだ鎮海湾の「極東第二艦隊」が黄海で大規模な演習をし、旅順を基地とする「極東第一艦隊」の一部もこれに合流したのを絶好の機会と見て、偽装の為に各地に散らばせていた全艦隊を、号令一下一挙にそこに集結させて、両艦隊に一斉に奇襲攻撃を仕掛けた。この大海戦に「物量と鍛錬度で共に勝る日本海軍」は完全な勝利を収め、その後は旅順港を海上封鎖して、黄海、日本海(東海)、対馬海峡、宗谷海峡の全海域で、完全な制海権を確立した。

制海権を得るや、満を持していた日本陸軍は、黄海に遊弋する日本連合艦隊の旗艦に大韓帝国皇帝の座所を作り、これを一時的に形式上の総司令部として、釜山と仁川に同時に上陸作戦を敢行、大量の兵員と武器弾薬を続々と送り込んで韓半島の各地に転戦せしめた。長らく陽の目を見る事のなかった日本帝国陸軍としては、これは千載一遇の活躍の場だったから、将兵共に死を賭して奮戦したが、「重装備の駐留ソ連軍」と「士気の高い朝鮮人民軍」の連合軍は予想以上に精強だったので、各地で苦戦を余儀なくされた。

ここで歴史は再び大きな分岐路に立つ。第一の「もしも」は、日本軍が最終的に勝利を収め、ソ連軍を鴨緑江の北に追い落とす事が出来た場合、そして、第二の「もしも」は、日本軍が結局勝利を得る事を断念し、韓半島から撤収した場合である。両方の歴史を書くとあまりに長文になるので、今回は取り敢えず第一のケースのみを書く事にすると、その後の帰趨は下記のようになるだろう。

苦戦の末に、多くの将兵の犠牲のもとに辛うじて勝利を得た日本軍は、復讐の念に燃え、朝鮮全域で「残存する共産主義勢力(労農勢力)」と見做された人たちを、少しでもその疑いをもたれた人たちを含め、何の躊躇もなく徹底的に弾圧した。これにより、全土が戦場となった為に既に激減していた韓民族の人口は更に減少した。

このようにして血にまみれた朝鮮全土を掌握した日本は、約束していた旧大韓帝国の支配階級の復活も、「あまりに弱体で統治能力を持たない」という理由でこれを許さず、日本への同化政策を一気に進めた。旧大韓帝国の王族たちは裏切られたとは思ったが、自分たちは元々労農勢力に追われて日本に亡命した立場であったから、文句を言う訳にもいかず、王族は日本の皇族に準じる扱いを受ける事で満足し、その男系の子弟の多くは日本軍の高級士官となる道を選んだ。

その後、欧州情勢は風雲急を告げ、ナチスが台頭すると、日本は鴨緑江を挟んで対峙するソ連を牽制する為に日独防共協定を締結するが、その後ヒットラーが突如スターリンと結んでポーランド分割に動くと、「欧州情勢は奇々怪々」と慨嘆して時の内閣は総辞職、ここで生まれたドイツに対する不信感は、その後長い間にわたり、日本政府の外交政策に影響を与え続ける事になる。

一方、満州に橋頭堡を築けなかった日本には、中国大陸の北東部に蟠踞していた軍閥や、蒋介石の国民党政府と事を構える理由が全くなく、従って、米英も日本を警戒するようにはならなかった。その一方で、日本という共通の敵を持つに至らなかった中国の国民党と共産党は、「国共合作」へと動く理由がなく、蒋介石は遠慮なく毛沢東を北に追い詰めた。しかし、満州に腰を据えたソ連が毛沢東を本格的に支援したので、毛沢東の率いる共産軍は容易に屈服せず、各地の農民の支持を得る事によって、却って国民党軍を南に追うに至った。

これを危惧したのが米英である。巨大市場である中国全土が共産主義勢力の手に落ちる事は何としても防ぎたい。しかし、欧州情勢が緊迫している折から、自らには軍事介入をする余裕はとてもない。そこで米英は、蒋介石に多額の資金援助をすると共に、日本に対して礼を尽くし、「中国本土に義勇軍を送って国民党軍を支援する」事を要請した。日本にとっては蒋介石に恩を売り、中国本土で米英に負けぬ利権を手に入れる「願ってもないチャンス」である。一も二もなく応諾し、重装備の義勇軍が数波にわたって大挙して海を渡り、国民党軍と共同で中国各地を転戦する。

その後、ナチスドイツは突如ソ連領土に侵入するが、その頃には、既に日本は「ドイツと共にソ連を東西から挟撃する」という夢を捨てていた。従って、日本は、ヒットラーからの再三の誘いをぬらりくらりとかわし続け、欧州における第二次世界大戦では最終的には連合軍側について、第一次世界大戦の時以上の経済的な利益を得る事になった。そして、連合軍の勝利の後も、破壊された欧州の産業が復興するのには時間がかかったので、国内の工業施設を無傷で温存出来た日本は、米国と共に長期間にわたり世界の産業界をリードする地位を堅持した。

中国大陸では、日本の帝国陸軍の奮戦のおかげで、蒋介石は台湾に追い落とされる事なく、停戦ラインと定められた揚子江以南を支配する中華民国の総統として、その後継者たちがその版図に現在の台湾並みの発展をもたらす道を開いた。

そして、その後しばらくして、路線の違いからソ連と対立するに至った中華人民共和国主席の毛沢東は、「このままでは、ソ連と日・米・英の代理戦争で中国人同士が争い、血を流し続ける事態になる」と考えて、これを避ける為に蒋介石と電撃的に和解、毛沢東の死後は、周恩来や鄧小平の活躍で北でも改革開放経済が進んだ。そして、これはずっと後の事になるが、そのうちに北と南は「連邦国家によって民族を統一する」事に合意、こうして生まれた「大中華連邦」は、既に韓半島と台湾を吸収してアジアの大国となっていた「大日本帝国」と競い合う形で、次第に世界の超大国への道を歩み始める。

その間、韓国人は、残念ながら、大日本帝国の国民として完全に日本人と同化させられ、自らの言語も文化も失ってしまう。現在のトルコ東部のクルド人や中国西北部のウィグル人よりも、民族色はより希薄になっていたかもしれない。

しかし、それは表面上の事で、三国鼎立時代から二千年近く続いた民族意識がそう簡単になくなってしまう事はあり得ない。大戦終了後数十年を経て、日本全体に民主化路線を求める国民の声が高まるのと期を同じくして、突然「民族復興」の気運が一気に盛り上がり、各地で暴動が頻発、その頃既に世界の世論をリードするようになっていた「民族自決」「人権尊重」の流れの前に、日本政府も妥協を余儀なくされた。その後、多くの経緯を経て、最終的には平和的な手段によって、朝鮮民族は遂に独立の悲願を果たして「大韓民国」を樹立、自らの言語と文化を取り戻すに至る。


とまあ、こんなところだろうか。韓国や北朝鮮の方々は、勿論こんなお伽噺は不愉快だと思われるだろうが、「単なる座興」と考えて、大目に見て欲しい。しかし、歴史とは「良い悪い」の問題ではなく、実際にはこの様に情け容赦なく作られていき、各国の民衆は、激流の中を漂う落ち葉のように、その中で翻弄されていくものだという「冷徹な事実」を、多くの人たちは理解しておくべきだと思う。

日本が韓半島での戦争に敗れ、日本に撤収した場合のもう一つの「もしも」の歴史については、またの機会に書いてみたいが、この場合は、極東で圧倒的な力を確立したソ連の力をヒットラーも過小評価出来ず、ソ連に侵攻する誘惑を捨てて、英国本土と北アフリカ中近東の攻略に全力を集中しただろう。

そうなると、英国も耐えきれず、本土と地中海沿岸の全権益を捨てて、豪州に亡命政権を作らざるを得なくなっただろう。その間、ソ連はイランとアフガニスタンを攻略し、イランとイラクの国境線をドイツとの勢力圏の境界線と定め、その後はパキスタンとインドに食指を延ばしてきていただろう。

かくして、ヒットラーとスターリンの蜜月はもうしばらく続き、豪州の英連邦政府と米国政府は、何としても日本を同盟国として確保し続ける必要性に駆られて、「仏印(ベトナム)や蘭印(インドネシア)の統治を日本に任せる」等の、種々の提案をした上で、ソ連からインドを防衛する為の「義勇軍」の派遣を求めてきたものと思われる。

その一方で、朝鮮人民共和国は、モンゴルやカザフスタンのようなソ連の衛星国の一つになって、安定的な地位を得ていただろう。しかし、ソ連政府は、扱いにくい毛沢東よりも、自らの息のかかった朝鮮の指導者をより信頼し、朝鮮が極東における重工業の拠点となって、日本海軍に対抗出来るような海軍力を構築するように、強い圧力をかけていただろうから、国民の生活は何時迄も決して楽にはならなかっただろう。