日本人「知韓派」と「拉致問題」(後編) --- 太田 あつし

2013年11月25日 07:00

前編より続く

「知韓派」の人々は韓国の大衆社会のウオッチャーだけに、反日に関わる諸問題の原因について朝鮮民族の「内的」な側面、つまりその民族性を問う考察が多いことは当然である。

本質的には「文学の人」である関川夏央氏は韓国や北朝鮮という「外国」に愛想を尽かしたのか、捨て台詞のような感じで日韓日朝関係を含めて『「世界」とはいやなものである』、韓国市民の民族主義は「井の中の民族主義」、北朝鮮は社会主義でなく「カルトの新興宗教国家」との結語を残されて、早々と日本文学などの自己のフィールドに戻って行かれた。


88年に帰国された古田博司氏は現在も韓国北朝鮮批評に健筆を振るっているが、氏もまた主に朝鮮民族と日本民族が内的に持つある種の民族的力量の水準の違いを問題にする。氏の印象的な表現のひとつは韓国社会の人々の間には日本人には考えられない程の「絶望的亀裂」つまりバラバラ感があるということである。このなかなか「固まれない」宗族集団ごとのエゴイズムが、民族の一体感形成や共同性を目指す高貴なる義務を阻み、機会主義や現金主義を蔓延させ、古くは近代化を拒んだ末に日本の植民地となり、現在においては深みのない、ルサンチマン的、発作的な民族主義の発生源になっているということである。そのあたりは、冷戦体制に「過去事の清算」などの植民地主義の解消が阻まれ、日本と朝鮮
半島が「正常な関係」を作れなかったという「外的」事情に原因に求める左派の考え方と好対照を成す部分である。

しかし、悲しいことにどちらの考え方も現在の切迫した諸問題に解決の糸口を与えるためにはあまりに弱いと言わざるを得ない。左派は、これもオルテガ的表現だが「甘やかされたお坊ちゃん」よろしく日本の厳しい世論を恐れてマニアックな仲間内に息をひそめ、右派は最初に引用した古田氏の「解決策はもはやない」という言葉に象徴されるように諦め口調で韓国は「相手にせず」が結論だ。

黒田勝弘氏の見解も韓国の独特な民族主義に対する「諦め」が主調を成すが、帰国してしまった面々とは異なりいまだに現実の韓国社会と真正面に向き合っている氏らしく今だに「呆れつつも」韓国社会に対する愛や好奇心を失ってはいないようである。そのだけでなく、最近は氏が「日本人拉致問題」に対し右派にも左派にも囚われない新しい、ある意味で「衝撃的」な政策的提言をなさったことを知った。ここに、その概要を紹介したい。

先月10月9日に「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会)の主催による「韓国から見た拉致問題-東京連続集会75」に、日本滞在中の黒田氏が招かれて講演を行った。「救う会」のホームページにその詳細(講演ヴィデオ全編と聞き書き)があるのでそちらも参照して頂きたい。氏は、自身がずっとソウルに「沈殿」しているので、日本での厳しい状況が実感できないという断りを入れつつ、時折苦渋の表情を見せつつ重い口を開き、慎重に言葉を選びながら話した内容は次のようなものだった。

朴新政権に入り、南北離散家族再会の企画が実施直前に北にキャンセルされた。それは韓国側にとっては新政権の点数稼ぎ、北には金剛山観光事業の再開による「日銭」が見込まれる政治的取引だったが、韓国側の厳しい条件提示に、北が損得計算の末に最終的に断ったと言われている。南北分断後の対立の中で生じた離散家族問題であるが、現在、赤十字に面会申請をしている人間だけで6万人いると言われ、物理的にも全員の再会実現は難しい上に、世代交代や統一のコストを危惧する現状維持派の台頭で再会や統一への熱気も失われ、今や人道という名のもとに利益のやり取りをする冷酷な「人質外交」の道具に成り果ててしまった。
北に対する人道的支援もまた、現実には表面的なタテマエを繕うだけの言い訳や自己満足と化している。

北に東欧の民主化革命のような事態は期待できないだろう。しかし、今後何らかの政変が訪れて統一の機会が訪れたとすれば多分、韓国人は「一瀉千里」に統一事業に取組むだろう。そうなればあらゆる問題は一気に解決するはずだ。だが、現在の韓国は思考停止状態なのであり、その機会を気長に待つしかないという雰囲気である。韓国にも約500人の北による拉致被害問題が存在するが、北はそれを自由意志の義挙越北と主張し、韓国側に反論がなかった訳ではないが、結局譲歩の過程でその問題は今や「人質外交」と化した南北離散家族問題の範疇に入れられてしまった。

日本にとっての痛恨事は「日本人拉致問題」もまた、南北両側において、そうした南北離散家族問題の延長上の問題の如く認識されていることだ。第三者である日本という外国に被害が及んだという意識はあまりないのである。こうした、北のみではなく南においても「金大中拉致事件」で見られたように日本という自分たちの主権の及ばない「外国」に入り込みあたかも自国にいるかのように犯罪行為をして悔いるところが少ないという精神性が形成されたことには、彼らの民族性などいろいろな理由があるだろうが、過去の36年間の日本による植民地支配の「つけ」、南北の共通認識としてはその清算が完全に行なわれていないという意識もまた大きい。こうした意識を完全に否定できないことは日本側にも公安
が拉致に対して積極的に動かなかったことには旧植民地諸国に対する後ろめたさから来る遠慮のような意識が働いたという事実があるからだ。

ともかく、南北の認識において日本人拉致問題が「過去の報い」の一種であり、また南北離散家族問題と同じような政治的取引の材料でしかないならば、現在、日本や国際社会がいかに「テロ犯罪との戦い」的な道義を振りかざしたところで相手に罪悪感のかけらもなければ何の効き目もないだろう。 そして、日本が「道義」を持ち出せば、北だけでなく南も同じく「性奴隷」と称する慰安婦問題に象徴されるような彼らなりの「道義」を持ち出し問題は泥仕合の様相を呈するしかないのである。

経済制裁と国際連携の圧力がこれまである程度はその効果を発揮して、いくつかの問題について北との外交交渉を可能にしたが、日本人拉致問題は部分的であったり中断したりとうまく行っているとは言えない。それでは自衛隊を動かして軍事的に被害者奪回作戦を行うか。それをすれば東アジア全地域の破局を招くだろう。残る手段は餌を与えるしかない。「人質外交」としての拉致問題における北の最終目的は日朝国交正常化、具体的にはそれで入ってくる金だ。02年9月に大きく動いたのはつまり金正日が100億ドルに目がくらんだからだった。外貨を与えることで北の核開発やテロリズムが助長されることはあるだろうが、上に述べたような歴史的な東アジアのこみいった国際関係を説明することで国際社会を説
得できるはずだ。

77年のダッカ事件時に日本赤軍に超法規的措置として金を払ったことは批判もあるが、ともかく人質を取り戻せたという前例にはなった。時間がないというならば手段を選ぶべきではない。 現在、北の新指導者は政権の基盤作りの最中だ。小泉訪朝で一部取戻した。それは金正日が100億ドルを期待したからだった。今度は安倍首相が直接北に乗り込み、金正恩と直談判してよい結果が出せる好機ではないか。

これが黒田氏の発言の要旨である。私は日朝間で現在交渉がどこまで進んでいるかについて詳しい知識はないが、こうした黒田氏の一見乱暴な提言、「直接交渉、とりあえず金で解決」は、彼の色々な解説を繋ぎ合わせて考えると、どうやら正しい判断ではないかと思う。

国際関係におけるこうした見解は「現実主義」と言われるものだが、黒田氏の提言はもはやその現実主義の遠い元祖であるマキャベリの考えに近い。つまり、いかに生くべきかの道義は捨て去り、現実にどう生きているかの力関係のみを認識し、最良の国家のサバイバルのためには、最悪の国家の手法を学べ、である。道義や報復の観念を捨て去り、ひたすら力の均衡をめざしつつ、手段を選ばず目前の問題の解決を図るべきだ。左右のイデオロギー対立は終わったが、日本と南北朝鮮には国家の正当性に関して全く相反対立する倫理的責務が存在するのである。その中で切迫した問題を暫定的に解決をするには現実主義しかないだろう。

しかし、黒田氏の講演はまさに「知韓派」らしく、諸問題に対する朝鮮民族の民族性という内的原因と、日本と朝鮮半島を巡る近代史の清算、過去に関する彼らの「恨」や日本の「負い目」という外的原因の間にわたされた果てのない迷路を逡巡する知識人の苦渋に満ちた思索がそのまま反映されたものだった。特に黒田氏は朝鮮民族の民族性について「民族的力量を疑う」という物騒な言葉を使われた。東西ドイツの分断時は可能であった通信や往来が南北朝鮮の間では実現できなかったこと、外国に対して主権の及ぶ範囲を厳守したり尊重する規範を確立できなかったこと、そして南北離散家族問題も拉致問題も道義的熱意を持続できず、体面や主張を一旦脇に置いて政治的な交渉を通じて「人間のための」妥協
や譲歩を勝ち取ることができなかったことを言っているのである。

しかし、私は黒田氏が「民族的力量」を一つの原因とされることに疑義を抱く。それは、たびたび「同質性神話」と批判的にも表現される日本人の「民族一体感」という基準で測った「民族的力量」ではないだろうか。
例えば古田氏が言われるような韓国人の利己主義や人間関係の「絶望的亀裂」のようなことは、もともと自由主義の本家本元の「計算高い」アングロ・サクソンの社会も同じではなかったか。日本人とは異なる経路やスタイルで彼らは彼らなりの集団的秩序を形成するのだ。日本人にとって祖国とその領域は生まれた家のように心理的に人と一体で限りなく強固な自然物に近い。しかし、朝鮮民族にとって国家とは彼らのバザール的雑多社会の周囲を守る垣根、つまり壊れやすい人工物である。反日とはその垣根のメンテナンスに使うだけのもの、つまり、離脱的自由を志向する個人のあつまりである「欲求の体系」の外郭の垣根を守るだけの道具に過ぎない。それは、「恨」などという高尚な言葉で表現されるよう
な永遠に続く本質永遠のものだと悲観する必要はない。朴大統領が日本への恨が千年続くと言ったが、韓国朝鮮の民族社会を外部者の侵入から守る垣根が、南北統一なり大国間の調整政治なりで安心の域に達したと韓国の大衆が悟れば「反共」と同じで明日にでもきれいさっぱり忘れられるだろう。

日韓日朝関係の中で日本がしなければならないことは、まずこちら側の「道義」を捨て、計算高い彼らと現実主義的実益外交を繰り広げつつ、水面下でひたすら軍事力を含む国力の均衡を図りながら、一方で道徳的な「贖罪」ではなく韓国朝鮮大衆に単純にその「垣根を壊さない」「危害を加えない」ことを大きな声でアピールし「反日」という向こう側の道義を無力化させるという、両面作戦を続けるしかないと私は思う。

太田 あつし
永進専門大学国際観光系列(韓国、大邱市)
外国人主任講師
ブログ:「鏡の向こう側 私の政治学研究ノート」

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