日韓ともに両国の政治経済関係を専門に扱う学者たちの論文やらシンポジウム報告やらをあれこれ読んでは見るが、正直言ってどれも「オタク的」で心に訴えかけてこない。日韓関係というものが持つドロドロとした歴史と我々の一人ひとりの庶民の「生」に纏わりついているその実感の中で、両民族の切迫した諸問題を考えるための「統合されたアイディア」が欠けている。やはり「ジェネラリスト」だ、それも日韓の相克を現場で眺めてきた人たちの文章には「何か」がある。私は自分が「保守派」だと思ったことはないが、産経新聞の「正論」や「外信コラム」はいつも欠かさず読んでいる。なぜなら、敬愛する黒田勝弘氏や筑波大の古田博司氏などが時折寄稿しているからだ。
どちらも練達の韓国ウオッチャーだ。記事の見出しに彼らの署名を見れば心がときめく。しかし、最近は事情が少し違ってきた。彼らの最近の文章を読むと日韓関係に対する、あまりの「悲観論」「諦観」に、一体どうしたのかと首を傾げ、彼らの文章の30年来の愛読者としては、一抹の寂しさを感じざるを得ない。 「韓国の反日は、日本が何をしようがしまいが激化していく。」「 解決策はもはやない。」(古田「正論」11.8)『韓国が内外で苦しかった60~70年代、「それでも韓国はよくやっている」と韓国を応援した“井戸掘り世代”の日本の知識人に近年、韓国離れが目立つ。しつこすぎる反日にうんざりしているのだ。
韓国は豊かになったせいか、困っているときに助けてくれたことなど忘れ、そのことに関心もない。そこが草分け韓国ファンには寂しい。』(黒田「外信コラム」11.9)とこんな具合だ。そうである、彼ら自身が韓国ファンの中のファンで言わば韓国を「骨まで愛した」人々だったのだ。
彼らを「知韓派」と呼べばいいのだろうか。80年代末に留学生として韓国に渡った私にとってのその「知韓派」とは、当時必死になって韓国社会の庶民の生活に溶け込もうとしていた私が心のよりどころとした、日本から持ってきた所謂「韓国本」の著者たちだった。上記の古田氏や黒田氏はもちろん、またそれ以上に田中明氏、長章吉氏、関川夏央氏などなど。そのほとんどの人たちが私より一世代かそれ以上の年長の人々で、関川氏を除いて70年代前後の韓国留学組である。
田中氏はその硬質の文章、長氏は反対にやわらかい文章から韓国への激しい愛情が感じられたが、残念ながら今はもう両人の新しい文章に接する機会は失われた。関川氏は漢語を多用した簡潔な美しい文章で韓国人たちの高貴な心を感動的に描いたが、現在は韓国朝鮮関係から遠ざかっておられる。古田氏といえばまずはほとんどの韓国留学者が身過ぎ世過ぎのために手にする韓国学生のための日本語会話文法の参考書で名を知られ、日本語の文法なんてものを超越したその奥深い日韓比較文化論的内容に瞠目したものだった。そして黒田氏は、現在もなお韓国におられるのだが、朝鮮の士大夫を彷彿させられる寛容や余裕、ユーモアといった価値を文章にも言動にも自分のものとされて、そういう面で今も韓国の人
々に恐れられつつも受け入れられているようだ。
彼らの韓国観はじっぱひとからげにはできないが敢えて言えば、80年代以前に日本の世論を支配していた所謂、戦後進歩左派の反戦、人権、反独裁主義の韓国観に対する漠然とした反感から出発していた。その反感の起源を知るにはたぶん彼らより年嵩の孤独な保守派であった福田恆存の語るところを見るのがいい。自身の知己である朴正煕の暗殺と政変の直後に発表された彼の80年初頭のエッセイ「孤独の人」があった。朴氏に対する哀悼の思いと韓国の開発独裁体制に対する彼の擁護はまさに当時の右派の釜山赤旗論そのものだったが、その底には戦後日本人への幻滅があった。彼は戦後日本を『国を「守るに値するかどうか」などといふ空論にうつつを抜かしてゐられる暇人の天国』と表現した。つまりホセ・オ
ルテガ・イ・ガセトの言うような「大衆的人間」に日本人が成り下がっていることに対する厳しい視線である。寺山修司の「マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」に象徴されるような重い国家から解放された大衆の「一億総白痴化」「軽佻浮薄化」に対するアンチ・テーゼだったと思う。
アメリカの背後に隠れて安穏を貪りつつ、旧宗主国でありながらその責任も忘れ、物質的繁栄に浮かれ、冷戦体制の最前線で国防確立と秩序安定と貧困からの脱出の三重苦に喘ぐ独立した旧植民地の人々に対して、人権がどうの平和がどうのと軽薄にも正義感ぶって口を出すことに対する後ろめたさも持たない日本人は間違ってはいないか。私の理解では福田に代表されるそんな思考の流れが、若き「知韓派」の人々を韓国ウオッチに駆り立て、文章を書かせたと思う。そうして生まれた傑作の数々は一言でいえば、あらゆる社会的圧力に抗して生きる韓国人たちの生活や考えをイデオロギーに曇らされない「裸の目」で同じ人間としての共感と敬意を持って見据えたある種の大衆社会学的な韓国観の集大成だった。
しかし、私が韓国へ出発した頃、87年の民主化宣言、88年のソウル・オリンピックを境に韓国社会は劇的に変化をはじめた。93年には32年ぶりに職業軍人出身者ではない文民による政府が発足し、97年にアジア経済危機の打撃を受け,起死回生のために外国資本を大幅に導入,グローバリズムの本質ともいうべき新自由主義的な経済政策を積極的に受け入れ,一方、太陽政策の推進によって2000年南北首脳が抱擁しあれほどに人々の心にのしかかっていた休戦ラインは突然軽くなる。経済の急速な回復と共に、02年の日韓共催ワールドカップによって、スポーツという代替的な方法ではあったが、韓国国民は近代化以来はじめてその優越願望が満たされるという思いに浸った。
しかし、その歓喜の背後で、やはり韓国にも日本と同じ事態が押し寄せて来ていた。オルテガが言うところの、国家が明日は消え去るかもしれないという危機意識の中で育まれる『権利ではなく自己への要求と義務によって定義される人々の「高貴さ」』は社会の前面から急速に退き、その代わりに朝鮮戦争勃発以来40年の長きに亘って抑圧されて来た、制限のない生を当然とし、独善と付和雷同、他人への無考慮、集団リンチ、凡庸な意見の押し付けによって特徴付けられる「大衆」が堰を切ったように溢れ出て社会の全面を覆い尽くし始めたのである。
それが「知韓派」の人々やそれに続いた我々の世代が直面した新しい韓国であり、そして皮肉なことにその矛先は「北」ではなく、我々の祖国日本へ向けられたのであった。紆余曲折はあったにせよ経済的成功と民主制の定着によって一応の正当性を確保した南側の政治共同体は、休戦ライン以北の同民族を「敵」ではなくいずれは抱擁しなければならない憐れみの対象として見るようになった。その汎民族共同体の枠組みを守るために歴史的に共有してきた神話や原理の一つであり、最も凡庸で分かりやすい行動準則である「反日」が、唯一可能な道義的合意として浮上したという訳である。「戦後ニッポン」に幻滅し韓国に渡った知韓派の人々は、彼らの愛した「高貴な人々」が突然その仮面を脱ぎ捨ててまさに
「大衆」の素顔を露わにし、よりによって自分たちに向かって拳を振り上げて来たような当惑と恐怖を味わっただろう。そして、それがますます増幅し、猖獗を極めたところに現在の日韓関係の諸問題のはじまりがある。
結局、韓国の人々を愛し韓国社会の底の底まで見尽した知韓派の人々が、こうした韓国の大変動に際して、逢着した難問とは何だったろうか。あれ程に苦渋に満ちた韓国近代化の歩みが一応の終点まで辿り着いた今、なぜ韓国民は日本に批判や憎悪の目を向けるようになったのかという問いである。「反日」とは朝鮮民族共同体の本質的な何かから生ずる「内的」なもので、近代化の怱忙の中で保留されていただけのものだったのか? それとも韓国が公言してはばからないようにすべては日本に改心悔悛の情が足らないこと、または過去の悪事の清算の手落ちという「外的」原因なのか? つまり、そうした日韓コミュニケーションを阻む深い溝がどこから生じたものなのか、という問題である。それに答えること
は容易ではない。今の状況は知韓派の人々を含めて皆が民族と民族、国家と国家の間に横たわる裂け目の底を眺めながら断崖に立ち尽くしているような感じだと言って間違いないだろう。
日韓関係30年を見つめてきた「知韓派」の人々が現在の諸問題をどう眺め、その原因を何に求め、果たして悲観や諦めを超える答えを持っているのか、そして例えば「日本人拉致問題」のような謂わば「最終問題」にどう答えようとしているのかについて次回の稿で扱ってみたい。
太田 あつし
永進専門大学国際観光系列(韓国、大邱市)
外国人主任講師
ブログ:「鏡の向こう側 私の政治学研究ノート」