文科省が教科書の検定基準を見直し?

松本 徹三

欧米諸国では、「教科書を国の官僚が検定する」等という国は稀(皆無?)だから、こんなニュースを聞くと「えー?」とのけぞってしまいそうだが、背景は分からないでもない。保守派の中には、「教育現場は左傾しており、戦前の日本のやった事を必要以上に悪く言う『自虐史観』が蔓延している」と考えている人たちが多く、「これを何とかして正さなければ」という強い意欲(強迫観念)を持っているからだろう。「中国や韓国は国の考えを子どもたちに強く吹き込んでいるのに、日本だけが曖昧では『愛国心の涵養』という面で太刀打ち出来ない」という気持もあるかもしれない。


後段の方の議論は、歴史認識の議論でもよく出てくる話であり、「中国や韓国は子どもたちに嘘を教え込んでいる。怪しからん。だから日本もやるべき」と言っているかのような話だ。「怪しからん」というのなら「だから日本もやるべし」とは言うべきではなく、「日本は決して嘘はつかず、常に真実を探求する誇り高い国だから、そういう事はやらない。中国や韓国も出来ればそういう事はやらないでほしい」と言うべきだ。だから、ここでは、後段は無視して、前段の議論だけに絞って、「何をどうするべきか」を考えてみたい。

文科省の見直し案の第一の要点は、「歴史問題や領土に関して、政府に統一見解がある場合はそれに基づいた記述をする」事であるが、ここに既に問題がある。

先ず歴史問題だが、これについて「政府統一見解」と言うべきものがあるとすれば、常識的に言って「村山談話」以外には考えられない。しかし、現在の安倍首相は、選挙期間中にも「村山談話は見直すべき」という趣旨の発言をしていたのだから、今後はどうなるか分からない。米国からの強い牽制もあるので、安倍首相も当分は何もしないだろうが、もしどこかの時点で「村山談話」を実質的に否定する「安倍談話」を出したら、それが「歴史問題に関する政府の統一見解」だと言う事になって、全ての教科書は書き換えられる運命にあるというのだろうか?

「領土問題」については、話はもう少し簡単かもしれないが、これとてそう簡単な訳ではない。例えば竹島については、「日本政府はこれこれの理由で竹島は日本固有の領土だと考えている」というところまでは良いが、それに加えて「ところが、韓国では竹島(独島)は韓国の領土であると主張しており、建造物を作ったり大統領が上陸したりして、この島を韓国が実効支配している事を誇示しようとしている」と書くのだろうか? 

もしこれを書かないとすれば、数多くある島の中で竹島だけを何故教科書で取り上げるかが全く分からなくなる。しかし、これを書けば、韓国側の主張の根拠も書かねばならず、それが理不尽である(政府の統一見解によればそうなる)とも言わなければならなくなる。そうなると、子どもたちは「そんなでたらめなことを言って不法に島を占拠している韓国人は悪い奴だ」と興奮するだろう。結局は日本政府も、(子どもたちに隣国人を憎む様に仕向けている)韓国政府の轍を踏む事になり、お互いに敵愾心を煽り合って、両国の関係は何時までたっても良くはならないだろう。

尖閣諸島の場合はもっと問題が多い。尖閣諸島については、日本は日本の領土であると主張し、中国は中国の領土であると主張している訳だが、それに加えて、日本政府は「尖閣諸島は日本領である事が明白であり、紛争は存在しない」とも言っている。しかし、それを自国の子どもたちにも言うのだろうか? そもそも「二国間の紛争」というものは両国の見解が異なるから生じるものだ。逆に言えば、「紛争が存在しない」という事は、「両国の見解に相違がない」事を意味する。現実には見解の相違があり、従って紛争が存在しているのに、教科書には「紛争は存在しない」と書けば、論理立ててものを考えようとする頭の良い子どもたちは、とても混乱する事になるだろう。

次に、見直し案の第二の要点として、「戦時中の事象等で確定的な見解や学説がない場合はバランスよく取り上げる」という事が言われている。歴史上の事象の多くについては確定的な見解や有力な学説がないのが普通だから、「一方的且つ断定的な記述は極力避けるべき」は当然であるが、何をもって「バランスがよい」と見做すのかは極めて微妙である。少なくとも、「教科書検定の責任を持つ部局に属する文科省一握りの官僚がその判断を下すべき」と考えるような人は皆無ではないかと思うが、それならば、誰がどのようにして判断を下すのだろうか?

「戦時中に起きた事をどのように評価するか」という問題は、要するに中・韓の言う「歴史認識」の問題であり、これは一筋縄では行かない。全国民が真剣に議論して、一歩でもコンセンサスに近づく努力をした上でも、なお相当の幅を持った結論になると思うが、まだこれも出来ていない段階で、文科省の官僚に「バランス」の判断を委ねる積りは、少なくとも私には毛頭ない。

私自身には、勿論「自分の評価が正しい」という信念があるが、他の人たちには当然その人たちなりの考えや信念があるだろう。仮に日本の保守派(国家主義的な考えの強い人たち)の言っている事を「右に90度」、現在の中・韓の政府が言っている事を「左に90度」と表現するとすれば、私は自分の考えは「右に40度」位だと思っている。(尤も、国際的な場で発言するとすれば、「右に20度から30度」位のところまで和らげるだろう。)因に、「進歩的文化人」と呼ばれてきた日本人たちが言ってきた事(それを右派の人たちは「自虐史観」と呼ぶのだろうが)は、恐らく「左に30度」位のところではあるまいか?

ところが、もし自民党の文教族の鼻息を窺うのに汲々としているに違いない文科省の担当部局の官僚にその判断を任せてしまったとしたら、彼等は、恐らくは「右に70度」位を中心線において、それから左右に若干の幅を持たせる事によって「バランスを取った」と考えるのではないだろうか? これは外交的にはかなり危険だ。

重ねて強調したいのは、文科省はこの問題についてはあまり出過ぎるべきではなく、もっとレベルの高い、且つ幅の広い議論の成熟を待ってから、始めて自分たちの出番が来たと考えるべきだという事だ。また、そのような幅の広い議論の中には、日本の外交について考える外務省の官僚や、日本の経済について考える経産省の官僚も、当然加わって然るべきだ。

最後に見直し案の第三の要点であるが、ここには「教育基本法の目標に照らし、重大な欠陥がある場合は不合格とする」とある。この点については、実は私はあまり違和感を持っていない。現在の教育基本法をもう一度通読してみたが、よく出来ており、特に問題点は見当たらなかった。

一昨日の日経新聞の社説では、「教育基本法の目標」の中の「伝統と文化を尊重し、我が国と郷土を愛する」という文章のみに焦点を当てて、これを「抽象的」とした上で、このような曖昧な基準をベースに「重大な欠陥がある」とされてはたまったものではないという趣旨の事が述べられている。しかし、この項の全文を読むと、「伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと」となっているので、私としては特に懸念は持っていない。余程の事がない限り、「常識的でバランスの取れた文章」を「重大な欠陥あり」として「不合格」にする事は不可能だと考えるからだ。

私は、「近隣諸国との関係が日本の国益に重大な影響を与える」という観点から、常日頃から「歴史認識」の問題を重視している。また、「領土問題」については、「国益を損なわず」「筋を通し」「戦争を招かない」唯一の方策は、「相互に見解の相違がある(従って、紛争がある)事を認め」「相互に『実効支配』の現状を認め」「物理的な力によって紛争を解決しようとはしない(即ち『実効支配』の現状を変えようとはしない)」事だと思っている。そして、その為には、良い解決方法が見つかるまで、何年でも待つ覚悟が必要だという考えだ。私は、その考えを出来るだけ多くの人たちと共有したいと念願している。

私がここで「多くの人たち」という時には、日本人だけではなく外国人も、また、大人たちだけでなく子どもたちも含んでいる。だから、「教科書の検定」問題についても、安易には考えたくはない。子どもたちに何を語るかは、何れにせよ国の将来に関わる問題であるから、教科書のあり方についても、国の意志が入るのは当然であると思っている(言い換えれば、他の多くの自由主義者たちとは異なり、「市民社会が未だ欧米並みに成熟しているとは言えない日本においては、『教科書は各地域の市民社会の良識に委せる』とまでは未だに言い切れない」というのが私の立場だ)。

何れにせよ、緊要なのは、国民の全てを巻き込んだ「徹底的な議論」によって、日本全体が一つのコンセンサスへと近づく事だ。それがあってこそ、始めて外国に対しても堂々とものが言える。