政治家に「ボーナス」という違和感 --- 佐藤 正幸

アゴラ

ボーナスの季節である。

半年の苦労がどういう形で反映されるのか、今から気になっているサラリーマンたちも多いと思う。2013年夏のボーナスは東証第1部上場企業139社平均で対前年同期比で0.6%減、金額にすると3970円減だったとのこと。(一般財団法人 労務行政研究所調べ)景気動向もそんなに芳しくよくなったとは言えなさそうなので冬のボーナスも夏と同等かさらに減少するかもしれない。


さて、日本にはどんなに不景気でも、どんなに仕事をしなくても、一定の給料とボーナスをもらえる業種がある。

政治家である。

ボーナスとはそもそも夏、冬2回に分けて企業の業績と社員個人のパフォーマンスに応じて支給されるものだ。当然企業の業績は毎期変動するし、社員のパフォーマンスも個人差がある。つまり、ボーナスという考え方は①会社の業績②社員のパフォーマンスという2つの変動要因から成り立っているわけだ。

サラリーマンの感覚からすると一生懸命働いても、働かなくても同額が毎年もらえることなどない。企業の業績が落ち込めば、自分自身のパフォーマンスが高くてもボーナスの減額を甘んじて受けなくてはならない。

筆者はかねてよりボーナス本来の考え方に基づき、議員賞与(ボーナス)については①各自治体・国家財政の状況②議員個人のパフォーマンスに基づいて支給されるべきだと主張してきた。

そもそもサラリーマンと違って1年の平日のほぼ全てを仕事にあてているわけではないので、年2回のボーナス支給という考え方もそぐわないのではないかとも思う。

議員という仕事を考えてみると、議会の構成要員として行政などの「統治する側」の監視要員だ。不正が行われていないか、お金の流れは適正かをチェックするわけだ。これをチェックするための権力が選挙を通じて与えられていることになる。「統治する側」の監視要員というのは「統治される側の代表者」としての立場でもある。

さらに、国政レベルになると入閣を果たすことで行政府の要員として「統治する側」そのものになることもある。地方行政でも財政再建のために社会福祉費を削って予算の縮減を行うなど「統治する側」の立場としての決定をすることもある。

つまり、政治家とは「統治する側」の人間であり、同時に「統治される側の代表」でもあるのだ。

今回の秘密保護法の議論のようにあまりに「統治する側」の色を強めると「統治される側」の色が失われ、そもそも自分自身の権力の存立基盤を否定することになりかねない。「統治する側」の色を強めれば、「国家の利益>国民の幸福度」という状況になるし、「統治される側」の色ばかり強めると「国家の利益<国民の幸福度」という状況になって国家そのものが崩壊する。

「統治する側」と「統治される側の代表者」の間でバランサーを演じるべき政治家がどちらかに傾斜を始めると国家も国民もそもそも成立しなくなる。

財政状況にも関係なく、個人のパフォーマンスにも関係なしにボーナスをもらえるという現行の仕組みは、明らかに「統治する側」としての立場を強めたものであるといえる。本来、行政のお金の流れや不正をただす仕事の監視員が行政と一緒になってお手盛りで有権者からの税金をボーナスにしてしまおうというのだから談合もいいところだ。「統治される側の代表」としての立場はどうなっているのか。

「統治する側」の人間として、さらに「統治される側の代表」として本当のポジションを政治家が取り戻すために国民も働きかける時期にきているのではないだろうか。無関心ではいられない。まずは地元の地方議員の足跡をつぶさに追ってみることをおすすめしたい。会社にボーナスの額は決められても、政治家のボーナスの額を決めるのはあなたなのである。

佐藤 正幸
World Review通信アフリカ情報局 局長
アフリカ料理研究家、元内閣府大臣政務官秘書、衆議院議員秘書
Twitter@Tetsutochi
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