アニメ『かぐや姫の物語』に寄せて --- 中村 伊知哉

2013年12月24日 10:16

高畑勲監督「かぐや姫の物語」。企画・製作8年。名作「ホーホケキョとなりの山田くん」から14年待ちました。前作は封切り日に観るためアメリカから帰国したことを思い出します。余白を多用する水彩タッチの日本アニメ、これを観たかった。


今年は、25年前の火垂るの墓とトトロ以来、ジブリ作品が年2本公開される年、高畑さんと宮崎さん競演の年でもあります。前回の競演は、高畑さんが反戦、宮崎さんがファンタジーという対比でしたが、今回は高畑さんがファンタジー、宮崎さんが戦争関連というこれまた対比。そして今回は、高畑さんが野山をはう、質感のある「生」を描き、宮崎さんが宙を舞う、理想のみの「生」を描いた対比ともみました。

かぐや姫の物語。

花、鳥、風、月。そして野山の虫、獣の美。都での優雅な衣装の色彩美。横に、向こうに、こっちに疾走する人物の美。見事です。他のアニメでは決して見ることのできないパステル系の色彩と、太く荒い線、そしてゆったりと、ふわふわとしたたたずまいに割り込む、激しいスピード感。

水墨画家や浮世絵師が西洋絵画ではありえない大胆な線や構図をドーンと使うことがありますが、それに似た、ドーンとした大胆さが随所に見られます。

解説に、背景とセル画を別々に描く様式ではなく、背景とキャラを一体化して1枚の絵が動くように作った、とあります。技術面でもかなりの新機軸が投入されているのですね。

穢れた地球に罰として落とされ、喜怒哀楽に生きることを課せられる。そこから脱したいと思ったとたんに連れ戻される。その背景、その事情はほぼ語られず、地上を駆け回り、泣き笑い、悩み、こらえ、成長する主人公が描かれます。これはおとぎ話としての「かぐや姫」、なのではなく、その「物語」なのです。

喜怒哀楽に「生きる」ことの全肯定。「生き」ずに月へ連れ戻されることの後悔。

家族をないがしろにして、殺人機械を冷酷に造り続ける「風立ちぬ」、その主人公とのコントラストはどうでしょう!

声優の安定度が抜群です。かぐや姫の朝倉あきさん、相模の高畑淳子さん、媼の宮本信子さん。特に翁の地井武男さん。1年半前に亡くなっているのですがが、録音が先で、アニメが後の製作手法=プレスコだから実現したそうです。地井さん、いい作品を遺されました。

地井さんは台本を読んで高畑監督に「これは地球を否定する映画か?」と聞き、「逆に、地球を肯定する映画です」という答えを聞いて、安心して音入れに向かわれたそうです。もし「風立ちぬ」の父親役に誘われていたら、宮崎監督に何と聞かれたでしょうね。

劇中のわらべ唄は、高畑監督が作詞・作曲に当たり、久石譲さんに説明するため初音ミクでデモを作ったといいます。それ聴きたいです!

氏家齋一郎さんが「となりの山田くん」が大好きで、高畑さんに作品を作ってほしいと言って実現したと鈴木プロデューサが語っています。大パトロンあっての作品なのですね。氏家さん、いい作品を遺されました。

「ホーホケキョとなりの山田くん」。14年前の作品です。興業的には失敗で、酷評も目立ちました。でもぼくは、実に好きでした。こういう作品が生まれ続けるには、ムダにおカネを投じるお大尽が必要なんでしょうね。IT長者諸君、こういう仕事をお願い!

エンドスクロールでまたもプロデューサ見習いとして川上量生さんの名前を発見しました。前作より本作のほうがうらやましいなぁ。
 
これぞ、見せたいクールジャパン。

ところで14年前、アメリカから「ホーホケキョとなりの山田くん」を観に戻ったころの模様の駄文がコラムに残ってます。アスキー24、1999年12月号。参考まで。

『となりの山田くん』は天才のフルスイング

『ホーホケキョとなりの山田くん』を封切りの日に観るために帰国した。高畑勲監督もよくこんな映画つくったもんだ。ファンタジーより現実のリアリティーを表現したい気持ちはよくわかる。

スコスコの水彩画面を作るために、もののけ姫を上回る作画枚数を費やす意味もよくわかる。CGなんていうテクノロジーはこういう具合に従えるべきものだっていう作家の気合いもよくわかる。でもホントにそれをフルスイングでやっちゃう根性ってのは、理解を超える。天才ってのは強烈なパワーが備わったアホのことを言うんだな。

作品が浮揚感で統一されているのは、人類の宝・矢野顕子さんの音楽の力だ。この作品の音を作れる人はこの方しかいない。河原町三条のテーブルの下でオウオウ笑って(中村注:大学入学式をサボって一人で河原町三条の喫茶店に『がんばれ!!タブチくん!!』を持って入ったところ衝撃的に面白くテーブルの下に潜って笑いをこらえた件)からしばらくたって、私は坂本龍一さんにあこがれて、音を出すことに熱中して、その世界に人生を捧げようかとも思ったが、矢野顕子さんの音に打ちのめされて、やっぱこういうのは天才がやらなきゃダメだと悟り、断念して、役人になった。いや私のことはどうでもいい。天才が大切なのだ。

よくこんな映画つくったもんだ、と唸るのにはもう一つ理由がある。マンガをアニメにするというのは、絶対に失敗する運命にあるからだ。マンガとアニメは根本的に違うメディアだから。マンガはとても柔軟な表現手段で、コマの大きさ、フキダシを含めた画像構成は作家の自由だ。ページをめくって読み進むタイミングは読者に委ねられる。聞こえてくる音の解釈も読者に委ねられる。

しかしアニメは、定まった大きさのスクリーンに、定まった時間進行のもとで、音も含めて、作家が全てのイマジネーションを描き切らなくてはいけない。マンガの読者に許される解釈やスピード感の自由は、アニメでは奪われる。だから、オーディエンスにとって、マンガとアニメの味には必ずズレが出る。アニメのテクノロジーが進化するほどズレは際だつ。

小説を映画にするのも同じ。たいてい失敗している。あたりまえのことだ。表現手段を変える難しさ、メディアを転換するのに必要なイマジネーションの重さ、を乗り越えるほど強烈なオリジナリティーを持ってこないと、原作に匹敵する作品はできない。

インターネットでの新しい表現を模索しているアーティストも多い。が、マンガやアニメなど旧来型の表現をそのまま載せようとしても失敗するのは目に見えている。リンクやインタラクティブというインターネットの特性を活かしたものでなければ、意味がないからだ。それならマンガやアニメで表現する方がいいのであって、ムリしてインターネットでやろうとするのでは、無自覚な作家のたまり場になってしまう。

そういう意味ではこの映画はかなり成功している部類だろう。正直いって私にはところどころテンポや音質の点で違和感があったが、スクリーンに表われるニッポンの日常は、私ごときの違和感など遠くにうっちゃってくれるオリジナリティーであった。おやじが酔っぱらってバナナを食うゆっくりしたシーンを、アメリカ人やフランス人や中国人に見せてやりたい。天才たちがぶつかりあって描くってのは、こういうことだ。

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iモードが始まった年です。まだクールジャパンという言葉もなく、ぼくは30代で、エラそうなこと書いてるなぁ、と恥ずかしくなります。でも、今と言ってることは変わりなく、成長していない気もします。

同じコラムに、「となりの山田くんを観る前に、秋葉原で伊藤穣一さんや猪瀬直樹さんらとデジタル放送に関するトークバトルに出演した。」「ドリームキャストの湯川元専務がいた。朝まで一緒に飲んでたというのにまた出くわしましたね。「何してんねんお前こんなとこで」「仕事でんがな」。楽屋には、いとうせいこう氏もいた。」とあります。当時と大きく変わったような、あるいは何も変わっていないような、そんな気がします。

あと14年たって、また高畑さんの豊かな作品が生まれたら、また同じようなこと言ってる、そんな気がします。


編集部より:このブログは「中村伊知哉氏のブログ」2013年12月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はIchiya Nakamuraをご覧ください。

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