世論とは何か?

2014年01月13日 09:48

安倍首相の靖国参拝は、日本国内でも世界中でも色々な議論を呼んだ。私は、首相が「自分なりの価値観と自分の周囲への配慮」を優先させて、「現在の難しいアジア情勢に対応する為の思慮深い外交戦略の選択肢」をいとも簡単に捨ててしまった事に大きな失望を禁じ得なかったが、一般国民の反応は二つに分かれた。


外交問題や経済問題を深く考える人たちの多くは、私と同じ懸念を共有してくれていたようだったが、普通の人たちにとっては、「何故国の為に戦って亡くなった人たちを祀る神社への参拝に、外国からとやかく言われなければならないのか」という違和感の方が強く、従って「今回の首相の参拝」には概して肯定的で、強い歓迎を表明する人たちも結構いた。

例えば、ヤフーの「みんなの政治」では、「参拝は妥当だったか、妥当ではなかったか」という問いに対し、参拝が行われた12月26日から1月5日の間に合計488,731 人が投票したが、このうちの76.3%にあたる372,861人は「妥当」と答え、「妥当でない」と答えたのは23.7%の115,870人に過ぎなかった。

新聞の論調は概ね辛口(参拝に批判的)だったが、このネット投票の結果を見て、首相とその周辺は手を打って喜んだものと思う。「ジャーナリストには未だに左翼のバイアスがかかっているが、一般の民衆は率直に共感を表明してくれた」という訳だ。

政治家の皆さんも馬鹿ではないから、ネトウヨの過激なTweetや書き込みは、結論的には肯定的なものであっても、若干眉をひそめて割引して受け取っている。しかし、何処にでもいる「一言言いたいオジサンたち」の支持は、そのまま快く受け取っているだろう。そして、「世論は我々を支持している」と考えて、自信を強めている事だろう。

しかし、ここには幾つかの問題がある。

第一の問題は、「現在のやり方で『世論』と呼ぶに値するものが発見出来るか」という問題だ。新聞社が行う「世論調査」やヤフーの「みんなの政治」のように、特に論点を詳細に解説する事もなく行われる「簡単な二択、三択の質問」に対する回答だけで、本当に「国民の意思が忖度出来た」と考えてよいのだろうか? また、それは本当に「国民の平均値」を対象にしているだろうか?新聞社の世論調査は「自宅で昼間に電話を受け取れる人(主婦や老人)」に偏っている恐れがあるし、ネット上の投票は「ITを日常普通に使いこなしている人たち(主として男性)」に偏っている可能性があるのではないか?

第二の問題は、仮に「世論」というものが正確に把握出来たとしても、「単純にこれに従う事が政治家の責務だろうか」という問題だ。政治家とは、本来は「長期的に国益を守る方法を考え、それを実行する能力を持ったエキスパート」として国民から選ばれた存在であるべきだが、もしそうであるなら、「その時々の平均的な国民の考え(世論)」に盲目的に従うのでは意味がないとも言える。むしろ、「色々な側面から考える事が必要な複雑な問題を、出来るだけ分かりやすく解説し、辛抱強く国民を説得して、最終的にはその賛同を得る」といった事こそが、彼等が本当になすべき事である筈なのだ。

たまたま昨日(1月12日)の日経新聞の13面に掲載された「熱風の日本史(第20回)」を私は感慨深く読んだ。当時の大衆は「米英への宣戦布告」に興奮し、「初戦の勝利」に熱狂し、ジャーナリズムはこぞってこれを煽り、「屠れ!米英我等の敵だ」「進め!一億火の玉だ」の掛け声が国を覆っていた事は私もよく承知していたが、私がこの記事で興味を持ったのは、戦後も活躍した多くの名だたる文人たちが、こぞって「まるで子供のように純真な感動」を書き残していた事だ。

「身体の奥底から一挙に自分が新しいものになったような感動を受けた(伊藤整)」「神々が東亜の空へ進軍してゆく姿がまざまざと頭の中に浮かんできた(火野葦平)」「来るなら来いという気持ちだ。自分の実力を示して見せるという気持ちだ(武者小路実篤)」「妖雲を排して天日を仰ぐ、というのは実にこの日この時のことであった(島木健作)」「戦いはついに始まった。そして大勝した。先祖を神だと信じた民族が勝ったのだ(横光利一)」「戦争は思想の色々な無駄なものを一挙に無くしてくれた(小林秀雄)」等々という言葉を、彼等は日記等に書き記している。

これに対して、戦争がどういうものであるかをよく知っていた政治家や軍人は、このような無邪気な人たちとは比較にならぬ程先を読んでいた。山本五十六元帥が真珠湾奇襲成功の第一報を受けた後の訓示に際しても暗く沈痛な表情を崩さず、「この戦いは半年ないしは一年で片を付けるべきものであって、それ以上続けていけば、我が国は非常に苦しい立場になる」という趣旨の話をした事は広く知られているが、戦後服毒自殺をした近衛秀麿前首相さえもが、「えらい事になった。僕は悲惨な敗北を予感する。こんな有様はせいぜい二、三ヶ月だろう」と沈鬱な声で語っていたと言う。

それ以上に、私にとっても意外だったのは、通常あの戦争をもたらした最大の責任者の一人と考えられている松岡洋右元外相が、「三国同盟の目的は、それによってアメリカの参戦を防ぎ、世界大戦を予防することにあったのだが、事ことごとく志とちがい、却って今度の戦争の原因になってしまった。それを思うと、僕は死んでも死に切れない」と目に涙をためて嘆いていたという事だ。また、大本営陸軍部戦争指導班の開戦当日の日誌にも、「(前略)理想的戦争発起の成功(中略)感激感謝の念尽きざるものあり。しかれども、戦争の終末を如何に求めるべきや。これ本戦争の最大の難事」と書かれていた由だ。

この事が示しているのは、ど素人の考え程怖いものはないという事だ。国の方向を定める判断は、冷静な計算を抜きになされてはならず、感情に煽られた判断は最悪だという事だ。

民主主義体制下では、国民が何を求めているかを常にチェックし、出来る限りそれを反映した政策を遂行するべきは当然であり、また、それが次の選挙に勝つ為に必要な事でもあるのだが、それでは、国民の多くが、それとは知らずに「将来自らを破滅させる事」を求めていたとすればどうだろうか? これを防ぐ為には、その事を心配する他の国民が、その人たちの目を開かせるように努力するしかない。そして、それは言論活動によるしかない。

かつては、一般国民を対象とする言論活動の責任を担うのは、政治家や官僚以外では、「自らが動員する学者や評論家を含むジャーナリスト」しかないと思われていたが、ネット社会が拡大している現在においては、一般市民もこの一翼を担う事が出来るようになった。また、学者や評論家やジャーナリストも、彼等がそう望むなら、ネットの双方向性や即時性を最大限に生かす事により、より効率的に自らの考えを多くの人たちに伝えたり、自らの誤りを最小限に抑えたりする事が出来るようになった。

しかし、この為には、ネット上の言論活動を正しい方向へ持っていく為に、色々な工夫がなされねばならない。例えば、下記のような事が考えられよう。

1) 玉石の選別。
「支離滅裂な議論」や「意味の無い罵詈雑言」の類でネットのスペースが埋め尽くされてしまわない様に、信用を重んじるサイトは一定の「排除原則」を定めるべきだ。これによって、主張の如何に関わらず、良質の記事が、より多くの人々の目にストレスなしに触れる様になるだろう。

2) 事実関係での「嘘」の排除。
明らかに事実と異なる事を言っている事が明らかになれば、「それが嘘であると判断される明白な根拠」を示した上で、そのような筆者を排除するべきだ。勿論、筆者が虚偽を認めて訂正すればその限りではない。

3) 賛否両論の併記。
多くの物事には異なった観点からなされる多くの異なった評価があって然るべき故、論争は大いに奨励されるべきだ。そして、重要で複雑な問題については、相互の論点が多くの人に分かりやすくなる様にスレッドを整備したり、Moderatorを設置したりする試みがあって然るべきだ。

4) 十分な情報提供を前提にした「世論調査」。
ジャーナリズムとネット・コミュニティーの相互乗り入れが計られるべきであり、両者の協力によって高いレベルの「世論調査」が随時行われるべきだ。また、一般市民に対して賛否を問う時には、必ず両論の長所と短所を公平に整理したサマリーが提示されるべきだ。

さて、現在、「歴史認識の問題」と、これに深く関係する「従軍慰安婦の問題」や「靖国神社の問題」が、国民の間での大きな議論になっている。この問題は、対外的には出口の見えない「中・韓との軋轢」を引き起こしているが、国内的にも「過去を肯定したい人たち」と「過去を否定したい人たち」の間で、相当大きな「考え方(価値観)の相違」が顕在化している様に思える。従って、上記の様なやり方によって徹底的に議論を深めていく事を、先ずはこの問題を対象に行ってみてはどうだろうか?

というのも、現状では、「問題の核心に近づく事もない、ミソもクソも一緒にした上滑りの議論」が、あまりに多い様に感じられるからだ。

例えば「靖国問題」について言うなら、肯定派の議論は「霊魂に関連する日本人の価値観や日本の精神文化について、何で外国人からとやかく言われなければならないのか」というところでいつも終わってしまっており、「その事が何をもたらすか」というところまで議論が進んでいかない。本来は「日本人が日本人の為に考えなければならない問題」なのに、それが「中・韓の言いなりになるのかならないのか」という「極めて自主性に欠ける粗雑な二択の問い」にすり替わってしまっている。

一番憂慮すべきは、アメリカ大使館のサイトが、米国を攻撃するレベルの低い書き込みで炎上状態になっている事にも見られる様に、「日本の過去を美化したい人たち」や「外国人に色々言われたくない人たち」の感情が、「反中」「嫌韓」だけに留まらず、「反米」にまで発展しかねない状態であるという事だ。つまり、この人たちの感性は、米英が中国を応援した事に憤った「昭和初期の平均的な日本人」の感性とあまり変わっていないのかもしれないのだ。

政治家が国内の人気取りにかまけている間に、目に見えないところで「日本の孤立」が進んでしまう様な事が間違っても起こらない様に、今こそ「健全な言論活動」のシステムを構築すべき時だと思う。

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