食べる対象ではないクジラと日本人との共生を考える --- 岡本 裕明

2014年04月04日 13:58

私が小学生の時、給食で鯨肉が時々出てきました。これが実は苦手で噛んでも噛んでも噛み切れず、それ以来鯨肉嫌いになりました。1951年の調査によると「小学生が学校給食で嫌いな肉として挙げたのは豚肉16%、牛肉7%、鯨肉23%で、鯨肉を嫌いと挙げている小学生が突出して多い」(ウィキペディア)ようです。

記憶をたどる限り、小学校の給食以来鯨肉を口にしたのは1度か2度。それもどこかの接待で自己の意志で注文したものではありません。多分ほとんどの現代人は鯨肉を食べることすら知らないのではないかと思います。鯨肉が日本で急速に普及したのは戦後の食糧難の際に牛肉や豚肉に変わるたんぱく質を確保する目的でありました。


では日本が昔からクジラを食料としてだけの位置づけかといえばそうではなく、むしろ「漁業神や漂着神・『寄り神信仰』として神格化」(ウィキ)であって神としてのクジラと712年に神武天皇に捧げたとされる食としての両面から日本の歴史に脈々と続いてきたのであります。

4,5日前のバンクーバーの新聞に日本の食としてのクジラについての記事がありましたが、日本人があまりクジラを食べなくなったこともあり、冷凍庫に何年分ものストックを抱えている日本においてこれ以上の捕鯨は必要か、というトーンでありました(鯨肉が冷凍庫に長期間保存されるのは昨日今日に始まったことではなく、このローカル新聞は読者に間違った印象を与えていると思います)。

日本がクジラにこだわるのは歴史的背景や文化としてその正当性を主張しようとしたのだと思います。一方で和歌山の太地町の捕鯨を反捕鯨団体シーシェパードがユーチューブにアップしたのはある意味衝撃的画像でありました。世界は明らかに奇異の目で見ているのですが、それは常識感が違うからだといえばそれまででしょう。私は個人的には日本が捕鯨の伝統と歴史を持っていることは消える事実ではなく、それは一つの歴史として尊重すべきかと思います。その上で前述の通り、クジラが神として奉られている部分と食としての利用価値の両面がある中で、食の部分については歴史の箱に閉まってもよいのではないかと思うのです。

その理由は一定の世代から上の人は一般的にはノスタルジーとして、あるいはもやは、珍味として食されるケースが多いと思いますがそれは食文化として継承されているとは言えないと思うからであります。

文化や伝統は続けることもありますが、守り方もいろいろあると思います。そしてクジラについては日本が神聖化することでその意味合いは大きく変わってくるのではないでしょうか?

実質的に今回の裁判で敗訴したのは南極海だけで他地域での調査捕鯨はまだ禁止されていませんが、いづれどこかの国からそちらについても同様の提訴があるでしょうし、日本がこれから調査捕鯨の名目で調査以上の捕鯨を継続すれば世界の中でそれこそ理解してもらえなくなります。

世界を見れば奇異な食文化を持つ国や地域は多いものです。犬がいなくなったところやサルの脳ミソを生で食するところもあるようです。日本はさくら肉と称してウマも食べるのですが、欧米の人からすればとんでもないことでしょう。ただ不思議なのはこの食用馬はカナダからかなり日本に輸出されているのですが。

君は日本の食文化を消滅させるのか、と言われるならばほとんどの現代人が食べた経験すらないものを文化と称するのか、という反論できるでしょう。私は今回の裁判の敗訴はやむを得ないと思いますし、その判決を重く感じたうえで日本がクジラとどう共生できるのか改めて考えるには良い機会だと思っています。

今日はこのぐらいにしておきましょう。


編集部より:この記事は岡本裕明氏のブログ「外から見る日本、見られる日本人」2014年4月3日の記事より転載させていただきました。快く転載を許可してくださった岡本氏に感謝いたします。オリジナル原稿を読みたい方は外から見る日本、見られる日本人をご覧ください。

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