韓国の若者たちが学ぶべき歴史

松本 徹三

「歴史を学ぶ」ということは「教科書に書かれている歴史を学ぶ」ということではない。何故なら、教科書には「それを書いた人(例えば為政者)が読み手に信じさせたい事」が書かれているのであり、それが事実に基づいているかどうかはわからないからだ。韓国の若者たちがその事を理解するのは簡単だ。例えば、1960年台の韓国と北朝鮮の教科書を併読してみれば、教科書の書き手によって書かれていることが全く異なることが誰の目にも明らかになる。


もちろん、韓国の若者たちは「北朝鮮の教科書は共産主義の宣伝に過ぎず、内容は滅茶苦茶だ」と断ずるだろう。しかし、その根拠を示せと言われれば、やはり一つ一つの記述についてそれが「事実でない」事を立証せねばならないだろう。要するに、たとえ「異なった思想信条に基づく独善的な記述だという事が分かりきっていても、矢張り事実関係の検証から始めなければ議論にはならないとう事だ。

「歴史書がどのように書かれるか」については、古代中国の歴史家である司馬遷の言葉から学べば良い。中国では何度も王朝が変わっているが、旧王朝時代に起こった事については、新王朝の指導者が編纂した歴史書を読むしか知る術がない。中国では、新王朝の正統性は常に孟子が言い出した「易姓革命」という考え方に基づいて語られる。つまり、前王朝の末期の皇帝の悪政を天が見かねて、異なった姓を持った人物に「天にかわって人間界を統治する」事を委ねたという訳だ。だから、新王朝で編纂された歴史書には、事実の有無を問わず、前政権のやった事は全て悪い事だとして記述されるのが当然だ。

本家の中国以上に儒教に傾倒していた韓国でも、当前この原則は踏襲されている。しかし、韓国では、1392年から1910年までの実に518年間の長きにわたり李氏朝鮮が全土を支配していたので、国ぐるみの歴史の書き換え(創作)は一回で済んだ。李氏朝鮮の始祖である李成桂は、後三国(新羅、後百済、後高句麗)鼎立時代が終焉を迎えた918年に建国された高麗王朝に仕える武将の一人だったが、国王から無謀な明国への遠征を命じられた為に反乱を決意し、その後色々な経緯を経て、遂に自らの王朝を立てる事になった。

ここで注目すべきは、李王朝では、このような自らの建国の背景から、武将に大きな力を与えれば自らの王朝も覆されるリスクがある事がよく認識されており、常に文治を優先させる体制が堅持された事である。具体的には、科挙制度で選ばれた儒学者が、国王を支えて儒教(朱子学)に則った「聖君政治」を行う事を目標にして、常に強固な中央集権体制で政治を行う事に意を注いだ。この点では、平安時代の末期に実質的な支配権を手中にした武士集団が、その後ずっと分権的な封建体制で政治を行った日本とは大きな相違がある。

しかし、「聖君政治」の理想とは裏腹に、実際に韓国でその後の518年間の長きにわたり続いたのは、貴族階級である両班が強固な身分制度に守られて庶民階級や最下層の奴婢を搾取する停滞した社会であり、その間、宮廷では、文官の諸派閥による陰湿な権力闘争や閨閥による権勢政治が繰り返されていた。大規模な反乱や武力衝突こそなかったものの、策謀や讒訴(告げ口)、裏切りや暗殺は日常茶飯事だった(最近はこの時代の事を扱ったテレビドラマも数多く作られているので、この辺の事は誰もが知っている事だろう)。

また、李王朝は、「朝鮮」という国号を定めるにあたっても「明にお伺いを立てる事から始め、「小国が大国に仕える(事える)のは当然」という「事大主義」を論拠に「歴代の中国皇帝に朝貢する冊封体制」を堅持した。儒教の家元である漢民族の「明」が野蛮な満州族の「清」に屈した時には、「このような国に仕えるのは理にかなわない」という議論が一時期沸騰したが、結局は「事大主義」が流れを制した。

力を得れば中国本土を狙い、強力に反撃されれば遠く荒野の彼方に退けばよい北方騎馬民族とは異なり、海岸にまで追いつめられれば逃げ道のない半島に居住する韓民族が安穏な生活を維持しようと思えば、おとなしく冊封体制に組み込まれるのが一番賢明な選択肢である事には、全く議論の余地もなかったと思う。

しかし、近代における韓国の悲劇は、実はここに根ざしていたとも言えるのではないだろうか? 欧米諸国の植民地化の波が押し寄せた19世紀の末には、厳格な身分制度の下で太平の世を過ごしていた事にかけては日本も韓国も大同小異だったが、日本には比較的自由な発想が出来る下級武士階級というものが存在したのに対し、韓国ではある程度の知性を持った人たちの頭脳はことごとく朱子学でがんじがらめにされていた。

(1800年に亡くなった「正祖 -イサン-は、広く人材の登用を計り、清国経由で西洋の科学技術を導入する事にも熱心だったが、彼の死後は慶州金氏や安東金氏による閨閥政治が再び猛威を奮い、革新派は全て粛清されてしまった。)

また、日本では、幸運にも「天皇」が形式的な権威者として温存されていた為、徳川幕府を倒そうとする勢力はこの力を利用する事が出来たが、韓国では李王朝以外の権威者はいなかった。1890年代には、慶尚道の民衆の間に広がった「東学」と呼ばれる新興宗教の影響下で大規模な農民戦争が起こるが、日本の一向一揆と同様に、最終的には中央政府軍に鎮圧されている。

欧米勢力が近海に姿を現すと、日本でも韓国でも、愛国的な若者たちはみんな当然のように攘夷に燃えたが、日本では、過激派の長州や薩摩が外国艦隊と戦って一日で彼我の格段の差を見せつけられると、一転して彼等と結んで武器の調達に走り、この武器を使って天皇の権威を前面に打ち出した革命政府(明治政府)を樹立した。これに対し、韓国では、なまじ最初の外国軍との衝突だった江華島で少人数のフランス兵と米国兵を撃退出来た為に、「攘夷は簡単に出来る」という錯覚に陥ったのか、李王朝の旧体制がいつまでも国を支配し続けた。

その後、先進諸外国に倣って中国を蚕食する植民地化競争に参入した日本が、清国同様に近代化に遅れをとっていた日本に近い李氏朝鮮を自国の支配下に置こうと企てたのは当然である。日本がやらなかったらロシアが南下してきただろうというのも当然である(当初はツアーの側近が朝鮮半島北東部の森林利権を手に入れたいだけのように見えたので、李王朝も日本よりは与し易いと考えたかも知れないが、不凍港の欲しいロシアがそれだけで収まるわけはもちろんなかっただろう)。

当時の世界は弱肉強食の世界で、「後進国の主権の尊重」とか「民族自決の原則」などという概念は未だ存在していなかった。そのような世界では、李氏朝鮮が自らを「小中華」呼ぶ程に長年誇りにしてきた儒教的な教養や倫理観などは糞の役にも立たず、科学技術と軍事力、それに欧米流の修辞術だけが事を決した。

だから日本は、これらを駆使して大韓帝国の皇帝(清国が日本に戦争で敗れた為、朝鮮国王は一格上って大韓帝国の皇帝になっていた)と官僚を屈服させ、遂には自国に併合してしまう事が出来たのである。日本では「あれは韓国政府の要請に従って正式な手続きに則って行った合法的な併合だった」と強弁する人たちが未だにいるが、こんな子供騙しの議論はしないほうがよい。形式を整える事などはいくらでも出来るから、表面的に見て合法かどうか等は問題ではない。日本の一連の行動が、武力による恫喝を背景にして、当時の大韓帝国皇帝が持っていた朝鮮半島における国家主権を侵害した行為であった事は、事実関係を丁寧に検証していけばすぐに分かる事だ。

歴史上の事実それ自体には原則的に「良い」も「悪い」もない。「良い」「悪い」はそれぞれの立場にある人たちが「主観的」に評価する事だ。「客観的」にみれば、わずかに欧米化が早かっただけで、日本人は韓国で優越的な地位を得、韓国人は怒りと屈辱感を心に秘めながらも、当面はおとなしくしているしかなかったという、唯それだけの事実があったという事に過ぎない。

さて、時代は流れ、大陸での利権獲得に欲を出し、総力戦時代における米国の圧倒的な力を読み切れなかった日本は、第二次世界大戦で独伊と枕を並べて一敗地にまみれ、それ故に、朝鮮半島の住民は突然日本の支配から解放された。その後の朝鮮半島をどうするかについては、米ソの二大勢力が角逐し、住民自身も複雑に絡み合った多くのグループに分かれて抗争した結果、南北に分断された二つの国家が誕生、その後は「米国主導の国連軍」と「中国人民義勇軍」を巻き込んだ「二つの国家間の戦争」が起こった。その戦争は未だ終戦には至らず、休戦状態のまま現在に至っている。

もっとも、その間、両国の世界における地位は大きく変わり、大韓民国では著しい経済発展と共に民主主義が実現したのに対し、北朝鮮人民共和国では軍事優先の一党独裁体制下で多くの国民が今なお飢えに苦しんでいるという状況になっている。その間、日本と韓国の間では、「大韓民国が朝鮮半島における唯一無二の合法的な国家である」という共通の認識に基づいて「日韓請求権協定」が結ばれ、それが韓国の経済発展を大きく後押ししたという事実もある。

これが客観的な歴史的事実というものだ。これをどう評価するか、「誰が偉かった」とか「誰が怪しからぬ事をやったか」とかは、それぞれがそれぞれに考えれば良い事だが、どちらに転んだところで、その評価だけで韓国や北朝鮮の国民の将来が決まる訳ではない。その一方で、国民にとって重要なのは「現在」と「将来」であって、今更変える事の出来ない「過去」ではないという厳然たる事実がある。

だから、「歴史は自らの現時点での信念や行動を決めるヒントを得る為に学ぶべきもの」であり、過去に起こった事をとやかく言う為に学ぶべきものではない。「誇り」や「恥」は主観的なものであり、現在の自分の行動に対して自らが持つべきものであり、過去の自国民が行った事に対して持つべきものではないし、ましてや他国民に対しあれこれ言うべきものでもない。

現在、きしみの目立つ日韓関係について言うなら、韓国政府や個々の韓国人が、過去の日本政府や日本人がやった事を「主権を侵した」「民族の誇りを踏みにじった」等の理由で「怪しからぬ」と考えるのは極めて妥当だと思うし、それに対して声高に「謝罪」を求めたり「賠償」を求めたりするのも自由だ。しかし、それに対し、日本政府と日本人がどのように対応するかも自由だ。両国の政府と国民は、どのような言動が「公正」で且つ自ら恥じないものであり、更に諸外国の理解も得られやすいかをよく考えた上で、それぞれに発言し、且つ行動すればよい。

現実には、韓国民の誰かが何かに怒って日本の国旗を焼いてみても、サッカー場で垂れ幕を掲げてみても、世界中の誰もそれを「立派な行為」だとは思わないだろうし、それで韓国が失うものはあっても、得るものは何もないのだから、そんな事はやらないほうが良いだろう。また、これは私自身の主観に過ぎないが、過去の日本の行動を非難する為の銅像のようなものを作ったり、外交文書の受け取りを拒絶したり、新聞紙上で侮蔑的な論評を展開するのも、基本的には大同小異の「国内のガス抜き以上には何も得る事のない小児的な行動のように思える。

近隣諸国との関係が悪化する事は双方にとって国益上決して望ましい事ではないが、価値観の相違からどうしてもそうならざるを得ないのなら、それはそれで仕方がない。両国の指導者が長期的な観点を持ち、国益の追求に敏感であれば、全てが改善出来るとしても、そうでなければ、当面は成り行きに任せるしかない。「どちらかの政府、或いは両方の政府がヘマをやったという評価を後世の歴史家が下す事は避けられない」と思うが、それは将来の評価の問題に過ぎず、現在の決定が遡って変えられるものではない。

こういう問題について、韓国の若者たちと膝を交えて語り合う機会があるなら、私は是非とも語り合いたい。世界中のどこにおいても、若者たちの特権は「過去のシガラミや固定観念から自由である事だと思っているからだ。