頭に来てもアホとは戦うな!

田村 耕太郎

アホと戦ってきたアホだから書ける本
7月8日に発売となる新刊のタイトルはズバリ


私は、この本の内容にはかなりの自信を持っている。それは私自身が「アホと戦う最低のアホだった」からである。アホと戦うアホさと、虚しさと無駄さを心でも身体でも実感している身なのだ。恥ずかしながら現状はまだ一部アホのままであるかもしれない。そういってしまうと本を書く資格が問われるが、なかなか人間の性質は直らないが、自覚して苦しみながら直している最中だからこそ、課題の自覚があって、多くの人に共有できる学びを一般化できるのだと思う。


大げさに言えば、私の人生における二大バイブルである「孫子の兵法」と「君主論」を現代日本社会対応版に焼き直したものとの自負も多少もある。孫子のエッセンスである「非戦論」と君主論のシニカルなまでの「人間観察術と権力闘争処世術」をいいとこどりしたような内容といっては言い過ぎかもしれない。

この本は「頭に来てもアホとは戦うな」との私の一つツィートから始まった。まさにこのタイトルである。このツィートを拾って本にしませんかと声をかけてくれたのがこの本の編集者であった。

当時の私は、シンガポールへの引っ越しの準備と外国企業の戦略顧問の仕事等で手いっぱいで、本を書く余裕も意図も全くなかった。何冊が本を書いてみたものの、私のような能力の足らない素人にとって一冊の本を書くのは“命を削る”と言えば大げさだが、とにかくとてつもなく辛い作業なのだ。なのになぜ書いてしまったのか?それは編集者の熱意とその背景にある日本の風土へ“一石を投じてみてみないと”との思いがそうさせたのである。

「倍返し」は最高のアホ!
このツィートをしたのが2013年10月9日。その二週間ちょっと前の9月22日に「倍返し」で一世を風靡した連続ドラマ“半沢直樹”が最終回を迎え、平成の民放ドラマ歴代最高視聴率を叩き出していたのだ。私はそのドラマのうたい文句である「倍返し」という言葉に反感を持っていたのでそのドラマはほとんどみていないが、予告編か何かをちらりと見た時に「これは絶対いかん」と感じた。それが最終回を迎えホッとしていたのだが、その余韻は「倍返しブーム」を増幅させるばかりであった。そして思わず世の中に向かってあのツィートを投げかけてみたのだ。

何がいかんのか?アホと戦うことがいかんのだ!こんなことをする、いやしなくても考えてイライラしているのはナイーブな(英語本来の子供っぽいという悪い意味で)日本人くらいだ。世界でも倍返しやリベンジがないわけではないが、大半はもっと大人である。

世界の多くの人たちは、世の中はそもそも不条理であり、力を持つ者の大半は卑怯なアホであり、それは許せないもののそんな奴と戦う“おバカな”ことはしないのだ。卑怯なアホと戦っても、勝てない確率がかなり高く、負けたら憎まれてそれこそ倍返しをくらうのだ。議論や口げんかで勝ったと思っても、やがて権力だけはあるアホの逆襲によりボコボコにされてしまうのだ。

倍返しも日本を含めて世界中で成功しないからこそドラマのネタになるのだが、実行しないまでも、倍返しの妄想を抱き、悶々としてしまい、心の病を患い、後にそれが本当の病気になってしまう人もいるかもしれない。そしてそんな無駄なことに限られたエネルギーと時間を使っていては、多分一度きりしかない大事な宝物のような人生を謳歌することができない。残念ながら時間もエネルギーも有限であり、古代ローマの哲学者兼政治家であるセネカもいうように「長い人生もアホな時間の使い方をしているとあっという間に終わる」のだ。

アホは戦うのではなく利用する相手
それよりも、人生は不条理なものであり、アホが君臨するのはよくあることで、勝てない喧嘩はそもそもするものではないのだ。それよりも一歩進んでアホは自分のために利用すればいいのだ。

ハイパーコネクテッドな現代社会では、何事もはやってみるものである。私が6万人ちょいのフォロワーに対して「アホと戦うな」と言っても蟷螂の斧みたいなものだろうと思っていたら、名うての編集者の琴線に触れてしまったようなのだ。編集者の口説き方が尋常ではなかった。「私こそがアホと戦わないスキルを学びたいのです」と一歩も引かなかった。語弊があるかもしれないが、まるで彼女がアホに囲まれて苦しんでいる様子に見えてしまったのだ。

「私の周りにもアホと戦ってしまい疲弊している友人がたくさんいるんです」そうか、友人のことだったのですね(笑)

アホと戦うのをやめてみるとどれだけ人生が楽でその余力で本来の人生の目的を楽しめるか!そして一歩進んでアホのその力を利用して自分の人生を謳歌することができれば、何倍も楽しいことか!

この本の内容は、アホと戦うアホらしさを自分の経験として伝えるだけではない。処世術の達人たちから学んだ「非戦能力」と「人間観察力」と「処世術」を伝えているつもりだ。大した才能があるわけでもない私だが、時間差で人生の出会いを活かす才能ならあるかもしれない。私は、能力の割に人生の達人たちに出会うことが多い。感謝である。ただ、人生の達人に出会ったその瞬間はたいして学んでいないのだが、失敗をしながら、自分と達人たちとの違いに気付き、そこから多少学ぶことはできるようだ。

特に純情な田舎者である私が大いに悩み苦しんだ永田町での日々は何にも代えがたい学びの毎日であった。政治家の苦しみは、政策でも議論でもない。オブラードに包んだような時もあれば、正面から激突することもある、その権力闘争に身を置いて物事を自分なりに判断して決断していくことである。“清濁併せ飲む”とはよく言ったものだが、「濁」を飲むのは、私のような度量の人間には非常につらいことであった。しかし今となっては、政治家に限らず、人生を謳歌するためには時として「濁」を飲むことは必要であり、それは強く勧めたい。決勝トーナメントが始まったW杯サッカーの試合を見ても、審判の眼を盗んでの反則や相手のファウルを誘うしぐさや時間稼ぎ等、強いチームやうまいチームほど「濁」の部分も徹底していると見える。「清」ばかり追求して、一度しかない人生の幅を狭めてしまい本当の楽しみを追求しないことは大きな損失だと思う。清も濁も、宝物のような人生を前にしたら、単なるスパイスのような存在に過ぎないのだ。

無駄に戦うことなく人生を大事せよ
非戦の書であり、シニカルな処世術の書でもあるこの本で一番歌えたかったのは自分の人生を何より大事することだ。たった一度のかけがえのない人生を豊かに謳歌するためには、アホをアホと思ったり、そんなものと戦う時間もエネルギーももったいないのだ。