宗教改革者ルターと「終末」 --- 長谷川 良

2014年08月09日 12:03

目を酷使できない状況が続いているので、もっぱらラジオに耳を傾けている日々だ。そんな日の午後、ラジオの文化番組の中で、宗教改革者マルティン・ルター(1483年~1546年)が「明日、終わりの日だとしても、今日、子供たちのために何か準備する」といった主旨のことを語った、という話が紹介されていた。常識的に考えれば、明日、世界が滅亡するとすれば、今日、将来のために何か準備するというのは通常の発想ではない。ルターの場合、明日滅亡したとしても、神の世界に対する強い確信があったから、そのようなことが言えたのだろう。


ルターの言葉を聞いて、いろいろと考えさせられた。新しい千年(ミレニアム)の到来を控えた西暦2000年の直前、ヨハネ黙示論的な終末論が賑やかだった。マヤ暦、ノストラダムスの予言などが話題を呼んだことを思い出す。「終わりの日」の到来という考えは決して珍しくはないが、その日の到来を真剣に考える人は多くないだろう。終わりの日の到来を警告して、路上で行きかう人々に悔い改めを訴えるキリスト教伝道師の姿が見られる程度かもしれない。始まりがあったので、終わりが確実にあるだろうが、自分の生きている時代はそうではない、と多くの人々は考える。当然だろう。終末が近いと感じながら生活はできないからだ。

読者のみなさんは「明日が終わりの日」だとすれば、今日、何をしますか。食べたいと思っていたが、高くて買えなかったロブスターを食べますか? いつものように会社に行くために電車に乗りますか? 普段は通り過ぎていたが、伝道師の話に耳を傾けますか?

当方は、終わりの日、終末について、人類の始祖の堕落より始まった歴史が再び元返しされる時代の到来と考えている。決してカタストロフィーの到来でも人類の滅亡でもない。むしろ、良き時代の到来を告げるのが終末と考える。実際、ファテイマの予言の証人だったルチア修道女は後日、親族関係者にそれとはなく「ファテイマの第3の予言内容は天地異変ではありませんから、恐れないでください。むしろ良き訪れの知らせです」と述べているのだ。聖書学的には「良き訪れ」とはメシアの降臨を意味する。

2010年5月、ファティマ(ポルトガルの首都リスボンから北約130キロ)を巡礼したローマ法王べネディクト16世(当時)は「93年前の1917年、ポルトガルの天は開いた。ファティマは神が開いた希望の窓だ」と指摘、「聖母マリアは福音の真理を人間に伝えるために、天から降臨された」と強調している。

ちなみに、当方はファテイマの聖母マリア再現80周年を取材するためにポルトガル・ファテイマを訪ねたことがある。当時、生存していたルチアに会うためコンイブラのイルマ・ルチア修道院に行った。ルチアは当時、外部の人間と接触しないように隔離されていた。バチカン法王庁がファテイマの予言内容が外部に流れることを恐れたからだ。当方は出てきた修道女に「ルチア修道女に会いたい」と告げたが、予想されたことだが断られた。そこで「ルチア修道女に伝言してほしい」と述べ、小さな紙に「彼は来た」という旨の内容を書いて修道女に手渡した。当方の伝言がルチア修道女に届いたかは分からない(「ファテイマの予言」2010年5月7日~10日について参考)。

ルターは「明日の日」が終わりでも、明日の後に来るだろう未来に希望を託した。ちなみに、ルターの宗教改革から生まれたプロテスタント教会が誕生してまもなく500年を迎える。新・旧キリスト教会の再統合が大きな課題として再浮上してくるだろう。


編集部より:このブログは「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2014年8月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。


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