「エアマット漂流の学生」の件から考察した、組織の課題

玄間 千映子

おいおい、仮にも「大学性」でしょ!
と一喝するところで、終わってしまいそうだけれど、同類の件、私達の身近でも起きているような気がする。

…オールも無く、棒で海底を突いて進もうとしていたが、見つかった場所は水深約70メートルだった。救命胴衣は着ておらず、マットから海中に落ちなかったため、大事に至らなかった…

エアマットに乗り無人島目指したが…漂流、自ら119番


海を棒で突いて進もうなどという発想は極端でバカバカしくみえるけれど、彼がもしモーター・ボートしか知らなかったら、海の底とはどのくらいの深さにあるものかなどと知る必要も無い。




そういう枠組みで眺めてみると、コンピュータ・プログラムというブラックボックスで動くIT社会は、実はコンピューター・プログラマーに操られているのと同じであり、それを享受しているのは、その結果が取りあえず、現在の自分の欲求イメージに合っているからである。



ところでプログラムの処理はいつでも一定であるのに対し、自分の欲求は周囲の環境変化によって随時、変わっていくものだ。けれども、コンピュータ・プログラムが精緻になり、巨大化してくればくるほど、そのコンピュータ・プログラムで動く「それ」を、「オールマイティーな存在」として認識してしまうという傾向が、私達にはある。

まさに、「それ」が何をしてくれるものかということが、ブラックボックス化してしまうのである。
コンピュータ・プログラムを組んだ時点と、現在の環境との差を調整することが、現在の環境に晒されている人に求められる力量となってくる。
調整するということは、「それ」を自分のものとしなくてはできないことだが、それには「それ」を能動的に使うということが必要だ。
現状は、「それ」をそのまま行うという「受け身」になってはいまいか?

これへの対処には「それ」が何をしているのかの教育が必要なのだが、業務処理を当人の人物としての力量に依存してきた多くの日本の組織では、こういうことへの社員教育が組織として対応できてこない。

なぜなら、組織自体が「業務内容の管理」ができていないからである。
あるいは、ひょっとしたら、組織自体もコンピュータ・プログラムで動く「それ」に振り回された、ブラックボックス化しているのかも知れない。
「コンピュータ・プログラムは、同じ処理を繰り返すもの」という視点で眺めれば、マニュアルというものに従った行動も同じ事。
「マニュアル」に従っているのに、客がなぜ怒り出すのか「分からない…」というより、その対処の方法が「マニュアルには、示されていない」などという、およそ考えるという機能を欠落させてしまったかのような応答をする社員が出てくるのは、「それ」が万能だという刷り込みがあるからである。

IT時代だからこそ、「それ」を能動的に使うことに焦点を置いた業務管理の手法が求められるのだが、ITを発達させてきた米国はマニュアル遵守を唱えているから、その答えはいないようだ。よって、それが問題だと思うなら、日本国内でというより、企業独自に組み立てることが必要だ。

どのみち、米国と日本では真逆な風土の上に各々マネジメント手法を発達させてきた。
それを思えば、どこか他国の事例を探しに行こうという短絡的発想は止めるべきだと思う。
むしろ、こうした発想が人を傷める方向で組織の合理化を進めさせ、深刻化させているような気がしてならない。

きっと「エアーマット」は、彼にはオールマイティーな存在に映ったのだろうが、昨今のマニュアル管理の失敗、大型プラント事故の多発等々、企業がブラック化している要因も、こうしたブラックボックス化への対応が未熟なところにあるように思う。