資産運用に腕前の良し悪しはあるのか

2014年12月16日 11:30

もしも、資産運用に腕前の良し悪しがないとしたら、事業としての資産運用など、成り立たなくなってしまうのではないか。この問いに対しては、逆に、資産運用という事業の成立要件として、腕前の良し悪しは、どのような意味をもつのか、と問い返すこともできる。


では、腕前の良し悪しは、運用の成果に、どの程度の影響をもつのか。答えは、わずか、である。わずかがいいすぎならば、腕前の良し悪しよりも重要なことがある、としてもいい。なぜなら、運用の技術の巧拙以前に、運用戦略のほうが重要であり、戦略の実行方法については巧拙を論じ得ても、戦略そのものに巧拙はあり得ないからである。

運用成果にとっては、運用戦略の選択の良し悪しのほうが、運用技術の巧拙よりも、大きな影響を与える。ここで、運用戦略の選択が運用の巧拙ではないのか、と問うこともできる。しかし、現在の資産運用業界の常識では、運用の巧拙は、選択された運用戦略の範囲内に限定されて理解されているのだ。その限りでは、運用の巧拙のもつ意味は小さいということである。

それにしても、どこか、おかしくないか。投資収益に決定的に影響を与えるのは、資産選択や、運用戦略の選択であるはずなのに、なぜ、資産運用の業界では、重要性の低い、狭い範囲での運用の巧拙にこだわっているのか。

わかり易くいえば、株式か債券かの選択のほうが、株式の中での銘柄の選択よりも、決定的に重要な影響を与えるのに、なぜ、資産運用業界は、株式の専門家、債券の専門家に分かたれていて、それぞれが、狭い範囲での銘柄分析に、つまり運用成果全体に対する関係では重要性の低いところで、限界的な巧拙を競うようなことになっているのか。

喩えで答えるならば、中華かイタリアンかフレンチか、はたまた、和食か、というような選択は、顧客に属する選択であって、板前に任された選択ではなく、板前は、各自の専門領域で勝負するのみ、狭い専門領域で、限界的な味の差で勝負するのみということだ。

しかし、この喩えのなかに、ある種のすり替えがある。お金には味がなく、量だけが問題だからだ。食事に喩えるならば、一定のカロリーなり栄養価なりを指標として、その数値目標の達成を志向することが資産運用なのだ。しかし、その場合でも、人間にとっての食事は、栄養の補給だけでは成り立たず、おいしく食べられるための固有の文化的条件をも充足しなければならないであろう。

このようにして、病院や学校の給食が工夫されているのではないのか。そうだとすれば、資産運用の技術は、板前の技術よりも、栄養士の技術に近いのではないのか。文化的な食事の条件を充足しながら、一定の数値課題を実現する、そのようなものが、資産運用の技術なのではないのか。

一つの分野で、おいしさを追求する板前の芸術的側面ではなくて、最低限のおいしさを条件として、科学的に栄養の組み合わせを実現するような栄養士の技術的側面に、より多く、資産運用の技術につながるものをみるべきなのである。

森本紀行
HCアセットマネジメント株式会社 代表取締役社長
HC公式ウェブサイト:fromHC
twitter:nmorimoto_HC
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