米ロ関係の改善は日本にとっても極めて重要

松本 徹三

正月休みに佐藤優さんの本を何冊か興味深く読んだ。意見の違うところも幾つかあるが、情報分析については頷けるところが大変多かった。

(例えば、ロシア政府の内情については、「灰色の枢機卿」とよばれているスルコフの失脚を「一時的な避難かもしれない」と見ているところや、彼のように地政学上の理由から日本を重要視する人がプリホチコを制する力を持たないと日ロ間の問題は進展しないと見ているところ等は、成る程と思った。また、彼の沖縄についての見識は注目すべきだと強く思った。)


米国は明らかにロシアを軽く見過ぎ、これが今日の抜き差しならぬ状況を招いていると私は思っている。欧米諸国は、ロシアは西欧資本主義に全面降伏し、その「遅れてきた一員」となるしかないと見ているかのようだが、こんな期待を持つのは性急すぎる。ロシアは良くも悪くもロシアであり、西欧とは一線を画する。

現実はプーチンが自ら国民に語りかけている通りだと思う。欧米の経済制裁と原油安のダブルパンチを受けた現在の経済的苦境は2年ぐらいは続くだろうが、ロシア国民はこれに耐えるだろうし、プーチン政権がこの程度のことで崩壊する事はあり得ないと私は思っている。ロシアには未だ民主主義は根付いてはおらず、欧米諸国の政治家がこの事を理解していないと、ナポレオンやヒットラーと同じ過ちを繰り返すことになりかねない。

誤解を避けるためにあらかじめ申し上げておくと、私はプーチンに正義があると言っているのではない。また、「強いロシア」を求めるロシア国民の意識を危険だと思っていないわけでもない。しかし、ロシアを欧米の価値観の中に強引に取り込もうとすれば、むしろ逆の方向へとロシアを追い詰める事になり、最悪時は東西冷戦への逆戻りも覚悟せねばならなくなる事を強く危惧している。

米国と西欧諸国はウクライナの多数派がEUとNATOへの加入を強く望んでいることを知り、これを好機と捉えたに違いない。しかし、ロシアがそれを黙って見ていると考えたとすれば、甘過ぎると言わざるを得ない。ゴルバチョフは、ソ連を解体した時、CISという名の下に旧ソ連は有機的な結合体として残り得ると錯覚した節があるが、それが錯覚であると悟った後も、全面的にその希望を捨てたわけではない。黒海を扼する戦略的に重要な位置にあり、しかもロシア系の住民が多いウクライナのような国が、自国と軍事的にも対峙する国になるのをロシアが簡単に容認するほど、現在の国際社会は成熟してはいない。

欧米には、この事を読み切り、西欧化を性急に進めたいウクライナの多数派を宥めすかして、この国を「ロシアとNATO陣営の間の人工的な緩衝地帯」として残す戦略が当然あっても然るべきだったと私は思うのだが、そのような選択肢が全く顧みられなかったのであれば大変残念だ。

結果として、クリミアがロシアの支配下に入ることにより、「外国の軍事力による国境の変更」という戦後レジームの「禁じ手」の一角が破られただけでなく、内戦で疲弊したウクライナは経済的に破綻、欧米の経済制裁によって弱体化したロシア経済は世界経済にも大きな影を落とした。それだけならまあ何という事はないが、原油の輸出先としての欧州に期待が持てなくなったロシアが中国との関係を強化するのは当然すぎるぐらい当然だから、このまま事態が推移すれば、対外拡大主義を隠さなくなった中国との間に新しい中ロ同盟が構築されて、西側陣営との間に新しい冷戦構造が生まれる可能性も否定出来なくなる。

これは日本にとっても由々しき問題だ。日中関係は何れにせよここ当分は緊張関係を余儀なくされるだろうが、その際一つのカードとして使えたかもしれないロシアカードはこれで完全に消滅してしまう。それだけではなく、米ロが対立するという事は、日本が米国に二者択一を迫られる可能性が高まる事を意味するから、日本は「エネルギーの輸入」「工業品の輸出」「北方四島問題の解決」の何れの問題についても、両手を縛られた状態でロシアと交渉せざるを得なくなり、結果として「ここ当分は多くの成果は期待し難い」という状態がもたらされる事になるだろう。

問題はそれだけにとどまらない。もし今後欧米の対ロ経済制裁がさらに強化されると、ロシアは遂に切り札のイランカードを切らざるを得なくなるかもしれないというのが、今世紀最大の恐怖のシナリオだ。現時点ではイランには比較的穏健な政権が生まれており、核開発の凍結にも期待が持たれつつあるが、もしロシアが一転してイランの核開発を支援する方向へと転じたらどうなるだろうか? 恐怖に駆られたイスラエルがイランに先制のミサイル攻撃を仕掛ける可能性も否定できず、そうなると、中東全域に三つ巴、四つ巴の複雑な戦争状態が惹起される。ホルムズ海峡は閉鎖され、原油価格は急騰、日本経済も壊滅的な打撃を受ける。

従って、米ロの対立の回避こそが、現在の世界で最も焦眉の問題であり、日本の国益上も極めて重要なわけだが、米国政府にその動きは未だ殆ど見られないのはどういう事なのだろうか? オバマ政権の外交能力がそれだけ硬直化しているという事なのだろうか? それとも、共和党に議会を制せられたので必要以上に弱気になっているのだろうか? その一方で、ドイツ、フランス、イスラエル、サウジアラビアなどの関係諸国においても、個別案件についての関心ばかりが目立ち、大局的な見地から米国に影響力を行使しようという姿勢は見られていない。この状態は極めて心配だ。

さて、それでは日本はどうすれば良いのか? 最も重要なのは米国との交渉だ。米国が望むのは「日本が間違っても国粋的な方向に動いて孤立しない事」と「経済、防衛の両面で米国ともっと一心同体になる事」の二点であろうが、日本は身をもってそれを示すと共に、その見返りに「米ロ関係の改善」を強く求める事が必要だ。そして、そのような努力がロシア側にも見て取れるようにして、ロシアによる日本重視を加速させるように持って行く必要がある。

イスラム諸国は多くの内部矛盾を抱えているが、その帰趨により今後の国際関係が大きな影響を受けることは間違いない。現状ではシリアとイラクとイスラム国の関係が頭痛の種だが、もっと大きな視点で見るとイランの帰趨が最も重要だと私は強く感じている。イスラム諸国がイスラエルの影響を常に強く受けている米国に警戒心を解かないのはやむを得ない事だが、ロシアにも中国にもイスラム諸国とは一枚岩になれない事情があるので、これである程度のバランスが取れている。この状況がキープされる事が、日本の安全にも極めて重要だ。

ウクライナ問題に端を発した中国とロシアの関係の緊密化は、色々な意味で日本にとっては嬉しい事ではないが、地政学上はロシアと中国は最も大きな衝突リスクを持っているのも事実だ。クリミアの論理がまかり通るのなら、長大な南シベリアの国境線の北側に住む漢民族がその地域の中国への帰属を求め、中国政府がこれを支援してもロシアは非難出来ない事になる。ロシアとて、そのリスクは十分意識している筈であり、だからこそ、中国の矛先が東シナ海や南シナ海に向かうことを密かに望んでいるだろう。日本も米国もこの事に十分注意を払うべきだ。

日本の右翼(国粋主義者たち)が単純で独りよがりな「外交音痴」である事は昔も今もあまり変わらないが、安倍首相には間違ってもそうあって貰っては困る。対米、対中、対ロの全てに、極めてデリケートな複眼的配慮が必要であり、それこそが長期的に国益を守る為の必須条件でもある。「一部の人たちの気持ちが晴れる」というだけの「靖国参拝」などに拘っている余裕は全くない筈だ。

「如何なる場合でも日米同盟だけは堅持せねばない」と考えている筈の安倍首相も、日本が「沖縄の米軍基地問題」という困難な爆薬を抱えている事をどこまで認識しているかといえば、いささか心許ない。実は、沖縄問題の本質については、母親が沖縄出身である佐藤優さんから私自身も今回多くを学ばせてもらった次第だが、「この扱いを大きく誤れば、沖縄がクリミア化する可能性もゼロではない」事は、この際安倍首相にもある程度意識しておいて貰った方が良いのではないかと思う。