志のある人、志のない人

しばしば混同されがちですが、志と野心は全く違ったものです。


製薬メーカーの研究者であれば、「新薬を開発することで世の中を変えたい。難病に苦しんでいる人を助けたい」というのが前者を指し、「此の薬を開発することで社内で評価を得たい。然るべきポジションを得たい」というのが後者を指します。

野心は己の幸福や自己満足で終わるもので、一代で完結してしまい受け継ぐ者は出て来ません。対して、志は広く社会と繋がりを持って自分の死後も、同じ志を共有する者に引き継がれて行くものです。

曹洞宗の開祖・道元禅師(1200年-1253年)は、「志のある人は、人間は必ず死ぬということを知っている。志のない人は、人間が必ず死ぬということを本当の意味で知らない」と言われています。

此の両者は、その志を如何にして次代に引き継ぐかを考えながら生きているか、あるいは全くそういったことに思いを致さないで生きているかが、その分岐点とされるものです。

一言で之は死生観の問題であって真に志ある人とは、人間死すべき存在であるが故に生を大事にせねばならず、生ある間に後に続く人々への遺産を残して行かねばならないことを知っている人を言うのでしょう。

そして、その遺産とは物的なものでなく「志念の共有」ということであって、それが分かっているかどうかで志ある人か否かが決まると言われている道元禅師が、正しいのだろうと思います。

遺産と言っても、何も歴史的に名を残すような事業をしたり、大政治家になったりすることではありません。自分がしっかりとした人生修養をして行く中で学び得たものを、次代に引き継げるようになれば、それだけでも良いのです。

私は齢六十四まで、唯々修養しようという気持ちをずっと持ち続け、今日までやってきました。これからも人間学を探求し続けて、私心や我欲のため曇りがちな自分の明徳を明らかにするように尽力して行こうと思います。

そして何事があっても「天を恨まず、人を咎(とが)めず」の気持ちで、全ての責任を自分に帰着させて行くしかないのだろうと思っています。

悔いが残らぬよう生きるのも、悔いばかり残る人生にしてしまうのも、全ては自分次第です。晴れ晴れとした人生を送って命を終えたいと思うならば、自分自身に打ち克ち自分の天命を全うすべく必死で努力すれば良いのです。

自分を高めるための時間を惜しみ、努力を厭っているようでは、此の世に何も残せはしません。結局その折角与えられた命は、ただ一代で果て行くのみです。

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