日本のビジネスマンを覆う「コクーン・シンドローム」

聞きなれない言葉を突然表題に使い申し訳ないが、これは私の造語。日本語にすれば「繭症候群」である。当初は「サブミッション・シンドローム(服従症候群)」という言葉を考えたが、「あまり格好のいい言葉じゃあないなあ」と考えていたところに、ある人が「コクーン(繭)」という言葉を提案してくれた。この言葉のほうが面白いので、結局この言葉に飛びついた次第。


最近は私がビジネスの話をする相手は日本人より外国人の方が多いが、たまに日本の大企業や中堅企業の人と話すと、何となくリズムが合わないような気がする。こちらは「面白い話だ」と受け取って貰えると期待していても、相手は「何となく否定的な姿勢」から入ってくる事が多いのがその原因の一つだろう。外国人には「先ずは身を乗り出して話を聞こうとする姿勢」があるのに対し、日本人には滅多にそれがない。「何だか面倒臭い話を持ち込まれそうで嫌だなあ」という表情が透けて見える事のほうが多い。こちらの話を一応は丁寧に聞いても、「目を輝かす」等という事は残念ながら皆無に近い。

それなら「サブミッション(服従)」ではなく「ウェアリー(警戒)」ではないかという人がいると思うが、私の見るところでは、「『目新しい提案』に対する『本能的な警戒心』は、『権威』や『常識』、『内部ルール』や『全体の空気』といったものに対する『殆ど盲目的とも言える服従』が原因」と思えてならないので、やはりこの言葉のほうが適切だと感じている。

日本人は一般に「戦術」には秀でているが「戦略」面では凡庸だと言われる事が多い。目標が定まっていると、これをきっちりと実現させる事が出来るのだが、白紙に絵を描けと言われると、どうしてよいか分からない人が多いようだ。外国人は「スケールの大きい構想」や「発想の飛躍」が大好きだが、日本人は「確実にこなせる構想」や「常識的な発想」でないと不安が先にくるようだ。

言い古された事だが、このような日本人の特質は、海に守られて異民族の侵攻を免れてきた一方で、「ムラ社会の掟を守り、きちんと自分の本分を全うしてさえいれば、身の安全は概ね保証され、相応の見返りも得られる」という環境下に長年安住してきたが故に、自然に身についたものであるに違いない。

しかし、その後時代は変わった。海で守られるという事も少なくなり、世界の経済が一体化して国境を超えた競争が一般化すると、このような特質はプラスよりマイナスのほうが多くなった。構想を大きく持たなければ、世界市場では戦えず、従ってスケールメリットによる競争力を失う。ワンパターンのやり方に安住していれば、発想を飛躍させた挑戦者にすぐに蹴落とされる。環境の変化に鈍感だと、いつもオポチュニティーを求めて目を光らせている外国人たちに一瞬の隙を突かれる。

日本の現代史はまだ短く、明治維新からまだあまり時間がたっていない。その間の日本は、とにかく欧米諸国から学び、そのやり方をコピーし、追いつき追い越す事のみを目標としてきた。ところが、或る日気がついてみると、ある分野では自分たちが既に世界の最高峰に位置しており、「追いつき追い越す対象」がなくなってしまったのに気がついた。そうなると、「新たな目標を自ら見出す」事が出来ない多くの日本人は、「今の地位を守る」事により熱心にならざるを得なくなったかのようだ。

この傾向は大企業においてより顕著だ。一定規模の会社で何とか相応の地位にたどり着くと、そこで享受できるものはあまりに大きい。「安定した高収入」「一言で動いてくれる部下や下請け会社」「摺り寄ってくる取引先」「ある程度自由に使える交通費や交際費」そして何よりも「より高い地位へと抜擢される可能性(切符)」。どれをとってみても、一旦手にしてしまうと何としても失いたくないと思うものばかりで、下手な冒険をしてこの全てを失う事など愚の骨頂と思うのも当然だ。その為にも、「権威」や「常識」への挑戦(不服従)は、絶対に避けねばならない事だ。

大企業の幹部は「決断力に富んだ大物」である必要も「とりわけて賢い」必要もない。一見賢そうで、「大物」然と見えるだけでよい。業績さえ順調なら、上司は部下の本質を見抜けず、自動的に「より高い地位への切符」を与えてくれる。

勿論、業績が低下した場合はどうにもならない。しかし、一定期間の数字なら何とか作りようはある。日本の大企業の場合は一人の人間が長期間一定のポジションに留まるケースは少ないので、「将来生まれてくる利益」などは重視せず、「将来の損失リスク」には目をつぶり、ひたすら「今期と来期の利益」の達成のみを考えればよいのだ。

いや、もう一つ重要なことがある。「当期の利益」には直接関係はなくても、「経営陣や上司がその時点で重視している経営指標」を達成する事だ。「経営者や上司が拘っている過去の失敗事例」は特に意識して、丁寧に避けていく事も重要だ。経営者や上司が「会社にとって最も重要な事」を正しく理解している保証は全くないが、そんな事はどうでもいい。彼等が意識している事こそが「全ての価値の源泉」だと考えて、それを中心に自分の言動を構成していく事こそが必要なのだ。

今仮に、ある大企業の部課長級の人間が、あるパートナーと提携して、新しい事業を創っていこうと考えたとしよう。常識的に考えれば、最も重要なのは「この事業の最終目標を正しく見定める」事だ。次に「事業計画の詳細と事業推進の具体的手順を合理的に決める」事だ。そして最後に、その全ての基本となる「パートナーとの信頼関係を確立する」事だ。

しかし、現実には、彼等が考える事は、先ずは「どうすればこの案件に対する役員会の承認が取れるか」であり、次に「どうすれば社内での色々な突っ込みや批判を(手間をかけない方法で)封じられるか」であり、そして最後に「この事業に取り組んだ事で、上司の覚えが確実にめでたくなるようにする」事だ。この為には、本来やるべきだった事を若干犠牲にする程度は何という事はない。時間をかけて準備をして議論し、「社内の勘違いを正す」努力をする事などは、彼等にとってはあり得ない選択だ。

このように言うと、話を面白くする為に私がかなり誇張していると思われるかもしれないが、そうでもない。私が自分で経験した事と人伝てに聞いた事を取り混ぜれば、すぐにでも幾つもの「笑えない話」が披露出来る。

例えばこういう話がある。もう数十年も前の事だが、コロンビアで地下鉄建設の商談があった。競争相手のフランスの大統領が直接コロンビアの大統領に電話して「仏領のどこかの島で家族ぐるみで一緒に夏休みを取りませんか?」と提案していた頃、日本では商社の担当役員が日本輸出入銀行に日参して「総裁にコロンビアまで行って貰えませんか」と頼んでいた。ところが、輸出入銀行の担当者は「総裁を担ぎ出すからには必ず受注できるという保証がないと困る」と言って難色を示し続けていた。彼には「受注の応援の為に総裁に出向いて貰う」という発想は全くなく、「総裁が出向いたのに受注出来ず、面子が潰れる」事だけを恐れているかのようだったという。

私自身にとって印象深かった話も一つ披露させて頂きたい。

二十数年前、私は伊藤忠の通信事業部長で、当時大々的に脚光を浴びていた低軌道衛星のプロジェクトに出資するかどうかで迷っていた。後に京セラが投資する事になったモトローラのイリジウムは、東西冷戦の最中に開発されたシステムで、衛星が北極と南極に集中する効率の悪いものだったから、私は早々に断ったのだが、当時関係の深かったパシフィック・テレシス(現在のベライゾン)、ロラール(衛星製造会社)、クァルコムの三社が共同で開発していたグローバルスターについては、「もしかしたら」という思いが捨てきれないでいたからだ。

そこで、パシフィック・テレシスと伊藤忠の両社で取り敢えず二人ずつ人を出して、二ヶ月かけてフィジビリティースタディーをした上で、「やるかやらないか」の結論を出そうという事になった。やがて上がってきたレポートを見ると、「やるべき」という結論が冒頭に書かれていた。

ところがある日、会社のトイレで、二人のスタディーチームメンバーのうちの若いほうと偶然一緒になったので、「いけそうか?」と聞いてみたところ、案に相違して彼は暗い顔をして、「私は反対なんですけど、『今更やめる訳にはいかないじゃあないか』と言われて、渋々判を押しました」と言った。

私は驚いて、その晩、分厚いレポートを丁寧に全て読み通したところ、販売見通しが明らかに甘すぎるのが分かった。「その頃既に急速に拡大しつつあった携帯電話に期待市場の相当部分を取られる」という予測が全く折り込まれていないのだ。私がその場で「低軌道衛星案件への投資はしない」と決めたのは勿論の事で、その為に伊藤忠は他社のように不要な損失を蒙らずに済んだ。

ところが、この話には更に後日談がある。この事があってから数ヶ月後に、私は色々な考えがあって伊藤忠を辞めたのだが、或る日三和銀行出身の日本イリジウムの社長に会ったところ、「松本さんは矢張りグローバルスターが出来なかった責任を取らされたのですか?」というような趣旨の事を聞かれて、心底吃驚した。「成る程、日本の会社の文化ではそういう風に思われるのか」と、あらためて妙な感慨にふけった事を今でも覚えている。

蚕は自分の口から吐き出した糸のような粘液で自分の周りを覆い、それが乾いた後にできる硬い「繭」の中に自分を閉じ込めて、それに守られながら成虫(蛾)になるまでの時間を稼ぐ。種の保存の為には大変良く出来たシステムだが、それ以上に、その繭を煮て生糸を作る人間のおかげで、蚕は大々的に飼育される事になった。

私がこの記事を書くに当って「コクーン・シンドローム(繭症候群)」という言葉を使う事に惹かれたのは、そこに何となく「日本のサラリーマンの悲しい習性」が重なって見えたからだ。「自らが生み出したものを使って自分で殻を作り、その中に閉じこもる」というところも何となく似ている。

ところで、幾つかの繭は丁寧に扱われて、次世代の蚕を生む蛾となるが、殆どの繭は煮られて生糸になる。その事を「世の中の為になった」と思って単純に喜ぶのか、やはり「悲しい」と思うのかは、人によって違うのだろう。