「七人の侍」という日本の寓話

村の会議には全員出席、そして全員に発言権がある

麦の刈り入れを待って襲撃しようという野武士たちの言葉を聞いた村人たちは、村の中心に集まってどうするかを話し合う。この共同体の最高意思決定機関ともいうべき会議には老若男女、ほとんど全員が出席する。そして全員に発言権がある。具体的な提案もなく、神様への恨み事を叫ぶだけの女性にも発言は許されている。それは宮本常一氏の「忘れられた日本人」冒頭に出てくる対馬の寄り合いにも似ている。

議論の参加者に決定権は無い

「野伏せりを突っ殺す」という強硬策の利吉と、「長いものには巻かれろ」という消極的な万造の意見が対立するが、彼らのいずれかの意見が採択されることはない。この共同体では、一方の意見を支持する側が「村八分」とされるリスクがでてくるスーパー・マジョリティに達するまで、多数決の論理は働かない。

最終的に浪人をやとって野武士に対抗するという方針を決定するのは、村の長老の儀作である。この決定を村人たちが受け入れるのは、それが良策だからというだけではない。この足腰もたたず、戦闘員としてはもちろん、生産者としても戦力外な老人の決定を受け入れることで、議論の参加者双方は、この決定に関する結果責任を免れることができるからである。

村人は「無知」であり、「無知」は誇りである

「百姓には種の善し悪し分かったって...侍の善し悪しなんかわからねぇ...」と町に浪人探しにでた与平は嘆く。共同体の正規構成員として定例の作業をこなすことのみが彼の存在を正当化する。それ以外の仕事を押し付けられることは彼にとっては不当であり、その結果責任を負わされることは彼においては存在の否定に等しい。

一旦、村の方針が決まれば、村の集団行動を乱すものは非難される

当初は少なくとも村人の半数近くは万造の消極策を支持していたものと思われるが、侍たちの下に竹やりの稽古が始まれば、全員参加でこれに励む。

守備にあたっては、川向こうの家屋を放棄するという勘兵衛の戦術に、自分の家が犠牲になることを知った茂助は反発するが、 「人を守ってこそ自分を守れる...己のことばかり考えるやつは、己をも滅ぼすやつだ!」という勘兵衛の叱責にあい、改心する。

美人の娘、志乃の貞操を心配した万造が、志乃の黒髪を切って男装させるが、この当然と思える用心でさえ、他の村人たちを不安にさせるという非難の対象になる。太平洋戦争中、東条英機が児童疎開を当初「この危難に際して、一身の安全のために疎開などするのは、卑怯未練、戦場離脱に類する行為だ」と罵倒し、後日戦況劣悪になってからの疎開に際しての悲劇を誘発させたことを思い起こさせる。

村人は無力な部外者に対して残虐である

菊千代が与平の持ってきた本物の槍に気づいたことで、村人たちが落ち武者狩りをしていたことが判明する。敗残の武士たちを殺戮し、その武具を奪い保存していたのだ。「百姓ってのはな、けちんぼで、ずるくて、泣き虫で、意地悪で、間抜けで、人殺しだぁ!」という菊千代に対して村人たちは返す言葉もない。しかし侍たちが百姓をそういう境遇に追いやったのだという一般論と、百姓は総じて「被害者」であるという主張によって、「落ち武者狩り」という犯罪は不問に帰される。

勘兵衛の戦術によって捕虜になった野武士は村人たちによってリンチにあう。「武士は相身互い」などという、侍同士の間の倫理は村人たちには通用しない。「待て!この男は虜だ!しかも何もかも白状してこのように命乞いをしている者をむげには斬れん!」という勘兵衛の抗議もむなしく、野武士に家族を殺された老婆は鍬で野武士を惨殺する。この老婆を演じたのはロケ地近くの老人ホームにいた素人だというが、実際に空襲で家族を失っていた老婆は台本を無視し「Bが...Bが...」とつぶやきながら鬼気迫る迫真の演技をしたという。セリフは後日、アフレコされた。

侍たちが村人に受け入れられることはない

決戦前夜、秘蔵の酒・肴を分け合い、村人たちと「トモダチ」になった侍たちだが、結果として4名の侍の犠牲と引き換えに野武士を全滅させた彼らも、ことが済めばやっかいものである。この地を離れられず、この地に共に住み、共に働き、死んでいくという地理的制約と強制的な運命を共に甘受するものだけが、この共同体の構成員となれるのである。個々の素質、才能、貢献などはかえりみられない。

田植え作業に精を出す村人たちを眺めながら、勘兵衛は「今度もまた、また負け戦だったな...いや、勝ったのはあの百姓たちだ...儂たちではない...」とつぶやきつつ、村を後にするのである。