利口ならば人は利他的になる --- 長谷川 良

独週刊誌シュピーゲル最新号(8月1日号)にオーストラリアのメルボルン出身の哲学者ピーター・シンガー氏(Peter Singer)とのインタビュー記事が掲載されていた。同氏はその中で Altruism(利他主義、独Altruismus )の新しい定義を語っている。

タイム誌で「世界で最も影響力のある100人」の一人に選ばれたシンガー氏(69)は「効率的な利他主義」を唱えている。主張だけではない。同氏自身、所得の30%から40%を貧困者救済のために活動する団体に献金している。シンガー氏は、「貧困者の救済は、出来たらするといった問題ではなく、利他主義者の義務だ」という。

シンガー氏は、「利他主義者は自身の喜びを犠牲にしたり、断念したりしない。合理的な利他主義者は何が自身の喜びかを熟慮し、決定する。貧しい人々を救済することで自己尊重心を獲得でき、もっと為に生きたいという心が湧いてくることを知っている。感情や同情ではなく、理性が利他主義を導かなければならない」という。

インタビューの中で、英国の哲学者トマス・ホッブス(Thomas Hobbes1588~1679年)に言及する。ホッブスは、「人間は他者との間で闘争状態にある」と判断し、「万人は万人に対して狼だ」という有名な言葉を残した。彼は、「全ての言動は最終的には自己保存本能に基づいた自己利益の追求」と考えていた。ホッブスの考えは国家論として「社会契約論」と発展していく。

シンガー氏は一つのエピソードを紹介する。
「ホッブスがある日、路上で物乞いに出会った。そこで彼は物乞いにお金を与えた。ホッブスの弟子たちが、『それは先生が日頃主張してきた哲学と一致しない行為ではないですか』と問いかけた。するとホッブスは、『物乞いに与えることで、私自身が喜びを味わいたかったのだ』と説明し、その動機はあくまでも利己的だったと述べて、自己の哲学を擁護した」

シンガー氏は動機より、行為の結果を重視する。その意味で、本人も認めているように、功利主義者だ。同氏は、「利他主義と利己主義を対立概念と受け取ることはもはや意味がない」と指摘し、新しい定義が必要だという。

利己的遺伝子に関する書籍が日本でベストセラーとなったことがある。確かに、人間には生来、生存への飽くなき執着心があり、必要ならば他者を押しのけても生きようとする。その一方、自身の命も他者の為に犠牲にすることを厭わない人間が実際にいる。通常、聖人や英雄たちと呼ばれる人々だ。
ただし、シンガー氏の利他主義は聖人や英雄になることを求めていない。犠牲も禁欲も良しとせず、冷静な計算に基づいて行動する。一般的な利他主義とは異なっている。シンガー氏が主張する“効率的な利他主義者”は理性を通じて、「利他的であることが自身の幸福を増幅する」と知っている人々だ。

シンガー氏は、「人間が純粋に理性的な存在だったら、われわれ全ては利他的な存在だったろう。理性的ではないため、利己主義と利他主義の間に一定の緊張感が出てくるわけだ」と言い切っている。

多くの人々はある時は利己的に、ある時は利他的に振る舞って生活している。どちらの世界がより多いかで、「あの人はいい人だ」、「彼はエゴイストだ」という人物評価を下す。
当方は、「人間は全て狼」とみるホッブスの人間観より、「他者の為に生きることが自分の幸福につながる」と確信するシンガー氏の利他主義に心の安らぎを感じる一方、同氏の確信を羨ましく思う。


編集部より:この記事は長谷川良氏のブログ「ウィーン発『コンフィデンシャル』」2015年8月9日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿を読みたい方はウィーン発『コンフィデンシャル』をご覧ください。