【GEPR】原子力規制委員会と法治主義

2015年9月8日付の記事の再掲です。

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安念潤司
中央大学法科大学院教授 弁護士

原子力規制委員会(以下「規制委」という)は、原子力規制委員会設置法に基づき2012年9月11日に発足した。規制委の正規メンバーである委員長・委員、規制委の事務局である原子力規制庁(以下「規制庁」という)の職員にとってこの3年間は、洪水のように押し寄せる業務の処理に悪戦苦闘する毎日であったに違いない。

原子炉はもとより、ウラン鉱石の精錬から放射性廃棄物の処理まで、核エネルギーに関するほとんど一切合財の規制を独立行政委員会方式で行うという、日本では前人未踏の仕事に取り組んできたのである。その労苦に対しては、素直に敬意を表すべきであろう。

しかし残念ながら、規制委・規制庁の実績に対して及第点をつける向きは少ない。試行錯誤の連続であったに違いない点を差し引くとしても、である。

再稼動問題の法的な問題点

ジャーナリストの石井孝明氏が月刊誌Wedge2015年9月号に「次の原発事故を招くガラパゴス規制委」(ウェブ版)という興味深い論文を掲載していて規制委・規制庁の病弊を適切にえぐり出しているので、一読をお薦めしたい。そこでは、例えば、10万枚以上の申請書類など、規制庁が電力会社に対して途方もないペーパーワークを要求している現場が描かれている。また、技術的・工学的な観点からの批判は、それぞれの分野の専門家からなされるであろう。そこで私は、法律家として若干の指摘をしたい。

規制委も行政機関である以上、その最大の使命は、憲法が規定するように、「法律を誠実に執行」することである(73条1号)。この規定の含意の一つが、「法治主義」と呼ばれる原則であり、それによれば、行政機関は、法律の根拠がなければ、国民に対してその権利を制限し義務を課する行為をなすことができない。

看過し難いのは、これまでの規制委の足取りを見ると、この大原則に十分忠実であったか疑わしいことである。その例として、二つを挙げよう。ここから先は、法令の細かい読みが要求される問題なので、退屈極まりなかろうがお付き合い願いたい。

一つは、マスメディアなどがいう原発の「再稼働の申請」なるものである。原子炉の設置や、一度設置した原子炉の変更(機器の新増設がその典型)は、当然ながら、電力会社が勝手にできるわけではなく、「核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律」に基づいて、その許可を規制委から得る必要がある(設置について43条の3の5、変更について43条の3の8)。この法律は、名前が長すぎるので、一般には「原子炉等規制法」と略されるが、業界的には極端に短縮して「炉規法」とも呼ばれる。

さて、「再稼働の申請」とは、法律的には、炉規法に基づく
1・原子炉の変更の許可(同法43条の3の8)
2・変更の工事の計画の認可(同法43条の3の9)、
3・保安規定の変更の認可(同法43条の3の24)、
の三つの許認可の申請を総称したものである。

福島第一原発の事故を受けて2013年7月8日から新規制基準なるものが施行された。新規制基準とは一種の俗称で、原子炉の設置・変更の許可を得るために求められる技術的な要件を定めた「実用発電用原子炉及びその附属施設の位置、構造及び設備の基準に関する規則」(「設置許可基準規則」などと略称される。注1)を指す。

電力各社は、同日以降も原発を運転し続けようとすれば、この設置許可基準規則の諸要求を満足しなければならなくなったのである。そのためには、各種の機器の新増設等が必要となるが、それは原子炉の「変更」に当たるため①の許可を、また、新増設工事を実施するためには②の認可を受けなればならない。さらに、保守・管理等の体制を組み直さなければならないので③の認可も受けなければならない。1~3の許認可を一括して受けなければならなくなった所以である。

詳しい説明(注2)は省略せざるを得ないが、炉規法は、これらの許認可に関する審査を、原子炉の運転を継続しながら行う仕組みをとっている。確かに、例えば、制御棒駆動装置の取替えのように、原子炉の運転を停止しなければできない工事は当然ながら過去にもいくらも例があり、そうした場合には一時的な運転停止がなされたが、それは、技術的・工学的な要請に基づくものであり、法律上の義務であったわけではない。

しかるに規制委は、はっきり明言したわけではないが、運転停止中の原子炉は、①~③の許認可を得てはじめて運転を再開できるかのような見解を示唆したため、2015年8月14日に九州電力川内原発1号機が再稼動するまで、1年11か月にわたってすべての原発が、何ら法律の根拠がないまま(つまり、電力会社としては、運転を停止していなければならない法律上の義務がないまま)運転を停止するという異常事態を生じた。電力各社に対して法律に根拠のない義務を課したことになるのであるから、規制委は、法律を誠実に執行することが使命の行政機関として、大きな失態を冒したといわざるを得ない。

活断層をめぐる混乱、法的根拠への疑問

いま一つは、いわゆる活断層問題である。活断層上に原発の重要施設を設置してはないことは自明であるかのように言われるが、ことはそれほど簡単ではない。炉規法自体にそうした規定はなく、設置許可基準規則3条3項に「耐震需要施設は、変位が生ずるおそれがない地盤に設けなければならない」と規定されているに止まる。ただ規制委の内規で、「変位が生ずるおそれがない地盤」とは、将来活動する可能性のある断層等の路頭がないことを確認した地盤を意味し、「将来活動する可能性のある断層等」とは、「後期更新世以降(約12~13万年以前以降)の活動が否定できない断層等」を指すと記載されているにすぎない。

確かに、設置許可基準規則は正規の法令(注3)であるから、電力各社は、耐震重要施設(因みに、この言葉の意味も、曖昧な定義しかなされていない)を「変位が生ずるおそれがない地盤」に設けなければならない義務を負うが、それはそれだけのことであって、「将来活動する可能性のある断層等の路頭がないことを確認した地盤」に設けなければならない義務を当然に負うわけではない。また、そこでいう「変位が生ずるおそれがない地盤」を内規のように決定論的に定義づけることの妥当性については、筆者の知る限り十分な説明はなされていない。

しかも、2012年以降、旧保安院は、いわゆる「耐震バックチェック」の一環として、原発敷地内の破砕帯について調査するよう電力各社に指示し、規制委はこれを引き継いで、調査報告書を「有識者会合」なるもので評価するという作業を続けている。この結果、敦賀(日本原電)、志賀(北陸電力)、東通(東北電力)の3原発について、表現のニュアンスに違いはあれ、活断層の存在を否定できないという評価がなされたことは周知の通りである。

しかし、この種の指示、調査および調査報告書の提出、有識者会合、そこでの評価、のいずれについても何ら法律の根拠がない。規制委は、電力各社に対して、法律の根拠のない行為を、しかも莫大なコストを負担させて行わせたことになる。その上、これらの評価が、法律上いかなる意味をもつのかもはっきりしない。

かりに規制委自身が、これら原発の耐震重要施設が「変位が生ずるおそれがない地盤」に設けられていないと判断するのであれば、当該原発は設置許可基準規則の定める基準に適合していないことになるのであるから、同法43条の3の23第1項に基づいて、その使用の停止等、「保安のために必要な措置」を命ずるのが筋であるが、そうした筋論はどこからも聞こえない。

「法治主義」の原理、誠実に受け止めるべき

行政機関が「法律を誠実に執行」するとは、法律を執行する上で良かれと思ったことは何でもしてよいし、またすべきだ、ということではない。繰り返しになるが、行政機関は、法律の根拠がなければ、国民に対してその権利を制限し義務を課すことは許されないのである。規制委には、この法治主義の原理への執着が甚だ薄いように見受けられる。

しかし、これを規制委だけの責に帰するのは明らかにアンフェアであろう。行政機関に対して、理屈よりも「黄門様の御印籠」を振りかざすことを求めてやまないマスメディアの体質はさておくとしても、私自身も身を置く法律学者なる集団の無能・無責任も糾弾されて然るべきであろう。

法律上どこまでが行政機関に許される行為で、どこを超えると許されないかは、法令の綿密な解読という作業なくしては明らかにし得ないのであり、そこにこそ学者の本領があるはずだからである。自戒をこめて、そう痛感する。

(注1)原発の設置・変更の許可の要件を定める炉規法43条の3の6第1項は、その4号において次のように規定している。
「発電用原子炉施設の位置、構造及び設備が核燃料物質若しくは核燃料物質によって汚染された物又は発電用原子炉による災害の防止上支障がないものとして原子力規制委員会規則で定める基準に適合するものであること」
設置許可基準規則は、同号の委任に基づいて規制委が定めた規則(規制委規則平成25年第5号)である。
(注2)よほど暇で奇特な向きは、僭越ながら、拙稿「原発はなぜ停まっているのか」(中央ロー・ジャーナル10巻4号、11巻1号、2号)を御参照願えれば幸いである。
(注3)ここで「正規の法令」とは、法律および法律の委任に基づいて行政機関が制定した政令・省令の類をいう。炉規法はもとより、その委任を受けて制定された設置許可基準規則も正規の法令である。正規の法令だけが、国民を拘束し、最終的には、裁判所が具体の事件を裁く際の判断基準ともなる。行政機関の内規の類は、当該行政機関内部の執務上の準則ではあるが、国民を拘束する効力をもたず、したがって、裁判所の判断基準ともならない。