「縦書きと横書きと新聞」考

若井 朝彦

きょうからはじまる新聞週間に事寄せて、新聞の紙面の話題をすこし。ただし記事内容ではなくて、形式としての紙面、もしかすると日本人の美意識とも関係する、藝術的な割付けなどについて。

龍安寺
『都林泉名勝図会』に見える龍安寺石庭

石川九楊氏が、横書きの日本文を糾弾したのは10年ほどむかしのことと記憶している。それからだいぶ時間が経った。しかし縦書きと横書きを対比した論考や研究が増えたり進んだりしたとは聞かない。

「これは、いつもは横書きで書いている人が、急に縦に書いた文章である」

といった鑑定ができるレベルまで到達すれば面白いと思っていたのだが、これが可能になるのは、はるかに遠い将来のことのようである。

石川氏の提言が利いているからではないだろうが、日刊主要新聞は、2015年現在、軒並み縦書きを維持している(サンケイ・エクスプレスはここでは主要紙に含めない)。

以下、読みやすいように、横をヨコ、縦をタテとしてはなしをすすめるが、印刷整版の用語では、この「タテ書き」という言葉はおかしく、正しくは「タテ組み」というべきなのだろう。だが、そうは言い切れない事情もある。

本文はたしかにタテ組みだが、「大見出し」「見出し」は縦横無尽。写真の説明、数表はもちろんヨコ、要約やポイントの指摘もヨコが多い。囲みの短信やコラムは、場合によってはヨコ組み。伝統の技の集積で、図像効果に満ちている。単純な「タテ組み」だと言えない理由は以上による。

しかしこの伝統の紙面も、もうそろそろヨコ組みにしてはいかがでしょう、というのが本稿の主旨だ。

ところで人間というものは、入力と出力とでは、いささか勝手がちがうようにできている。書くのが「ヨコ」の人だからといって、読むのもヨコ組みが好きだとは限らない。

ただし、手書きで「タテ」に書く人は、読むのもタテ組みが好きだという傾向は強いかもしれない。現在、PCを使うに際して、タテ入力が好き、という人はまったく少ないだろうが、漢字仮名交じり文の場合、読むことに関しては、たしかにタテが読みよいとはいえるだろう。

だがヨコならではの効能というものもある。タテで書いたものでも、いったんヨコに組みなおして見ると、展開の荒っぽいところや、誤植を見つけやすい。現在のPC環境ではこの組み直しは瞬時でできて便利。ヨコ書きの方が冷静に読めるとわたしなどは思う。

ただ、「タテ」がなめらかに読めるとしても、それは「数量的」な表現がない場合に限られる。数字数値が出てくると、圧倒的にヨコの勝ちである。これはどうしようもない。最近は新聞の本文のタテ書きでも、数字に洋数字をつかうようになったが、その数字も、2ケタまでは半角のヨコ並び、それ以上は全角のタテ並び、と複雑であること極まりない。かえってタテ書きの欠点を露わにしてしまった感がある。

数字が洋数字に統一されても、まだまだ各紙とも、ネット配信のストレートな「ヨコ」の数字と、紙面の「変体タテ」の数字とでは、ちがう変換でやっているわけだ。やはりこれは馬鹿らしい無駄だと言えるだろう。

それに加えて、紙面の構成、整理、割付けの問題がある。

先にもすこし触れたように、紙面の構成の入り組んでいること、あたかも山水画の如しで、「図像効果」に満ち満ちている。全国紙の一面は、どこにでもあるフォントを使いながらも、ここまで感覚操作ができるのだという、いわば藝術的な見本である。

したがってネット版のプレーンな、すっぴんな記事から受ける印象と、舞台装置の調った紙面版から受ける印象の差異は、小さくない。紙面版では「整理」の段階で、(写真とともに)最後の「角度」をつけているわけだ。現場の記者は、この現象について、どう考えているのだろう。やっぱり紙面が一番、ネットは栄養素だけで無味、と思って記事を書いているのであろうか。

さききほどは「山水」という言葉を使ったが、右上の題字から記事を経てやがて下段の広告に至る道程は、まさに須弥山から大海に至る禅の庭の、水の流れの曲折をも思わせる。またこの右上から左下への動きは、歌舞伎の幕切れに、下手花道を駆け抜ける名題の役者さながらである。もしかすると、われわれは、新聞の紙面もそのように認識しているのかもしれない。こうなってくると、タテ書きかヨコ書きか、といった範疇ではすまない。日本文化そのものの問題なのかもしれない。

しかし新聞各社、いろいろと顔を洗って、化粧を落として心機一転、出直したらどうだろうかということだ。見出し、要約、本文すべてヨコ組みにして、取材力と平明な記事という、基本からやり直してみてはどうだろうか。

たとえ日刊の宅配の新聞は滅びても、ジャーナリズムはなくならないし、ジャーナリストも同様だ。全国日刊紙は、あたらしい形式の媒体へのよき模範、道筋を示すという、かっこいい役割は、いまからでも果たせなくもない。

じつはこの稿の本当のねらいはというと、割付けに限らず新聞「抜駆けのすすめ」ということである。最初に横組みにした全国紙は、半年間くらいは、他の新聞に対して優位に立てるかもしれない。悲しいかな大した優位ではないかもしれないし、横並びの「新聞仲間」からは外されてしまうかもしれないが。

 2015/10/15
 若井 朝彦(書籍編集)

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ところで以下一言ご挨拶申し上げます。
今月よりアゴラに執筆させていただくこととなりました。
まことにありがたいことと、あつくお礼申し上げます。
つきましては自己紹介をまとめております。
皆さまには今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。

若 井 拝 

わかい ともひこ 1960年生 在京都  編集といっても京都を離れずに、まして日本近世文化、ドイツ音楽史あたりだけでやっていけるはずもなく、並行して豊富な職歴を有す。発掘調査、地図製作、観光業、手工藝ほか。そんな関わりもあってソムリエ(JSA会員)。学会には属さないが京都の私大の研究所に籍があり、たまに執筆、まれに出講。俳諧師として号は立立など多数。ときおり歌仙を巻いている。出版造本では壽岳文章博士の孫弟子であることを自認。