ひとり親の貧困問題解決へ、本質的な議論を --- 駒崎 弘樹

現在、ひとり親の少なすぎる給付を改善しようという署名キャンペーンを行っています。

ひとり親キャンペーン
このキャンペーンを呼びかけている中で、評論家の常見陽平氏から「自分は母子家庭で育ったが、貧困ではなかった。ひとり親=貧困ではない。よってこれは印象操作だし、配慮のない言葉によって自分は傷ついた」というご指摘を受けました。
http://togetter.com/li/891659

氏の心境を傷つけてしまったのは大変遺憾で、申し訳なかったと思います。
当事者の方々も様々で、多様な価値観がそこにはあり、尊重しなくてはならないことに改めて気付かされました。

一方で、こうした論法には多くの問題があると言わざるを得ません。これは決して氏個人を批判したいのではなく、何らかの社会問題を解決するにあたって、(無意識のうちに)ハードルを生み出してしまうことに繋がるからです。

例えば、「内戦によってシリアの難民達が悲惨な状態に置かれている。助けねば!」という主張に対して、シリア人の中には悲惨じゃない人もたくさんいる。シリア人全てが難民かのように言うのは違う。傷ついた」という反論があったとしましょう。

これは事実としては正しい。シリアにも爆撃を受けてない地域は(少ないと思うが)存在するでしょう。間違ってはいません。しかし、問題解決にとっては無意味な言説です。なぜならここでの本質はシリア人全員が悲惨かどうかではなく、悲惨な状態にあるシリア人をどうやって助けるかを考えることにあるからです。

よってこの論法は、まず議論の本質からトピックをずらしてしまうことで、建設的議論を阻害する役割を担ってしまいます。

また、議論が成立しないだけではなく、単純に問題解決を遅らせます。

問題解決には一定の順序があるとNPO業界では言われています。すなわち、
①問題「発見」→②分析→③解決のためのアクション
です。

このうちの最初のステップ、問題「発見」というのは、あえてカッコ書きにしたのは、問題は実は問題としてそこに提示されているのではなく、問題として定義されることによって、初めて問題だと認識されるのです。

例を出しましょう。
例えば児童虐待。児童虐待が「問題」として定義されたのは、実は割と新しい。1980年代までは特殊な家庭環境下でのレアケースだと思われていました。(http://bit.ly/1ihTvFD
「しつけ」としての体罰も一定程度容認されていました。

しかし様々な啓発運動の結果、児童虐待として一般的認知を得ていき、法整備も進み、そうした制度は実際に子どもたちの命を救っていきました。

ここで、「過度に殴られたりする子どもが増えている。この児童虐待というものは問題ではないか」という問題定義のための主張がされた時に、「虐待をしていない親の方が圧倒的に多い。子育てを頑張っている親たちに失礼だし、ちょっと叩いただけで虐待扱いされるのは失礼だし傷つく」と親当事者が強硬に反対していたらどうだったでしょうか。

おそらく児童虐待防止法などの施行は遅れていたかもしれませんし、それによって助かる命も失われていたでしょう。

このように、問題を可視化しようとした時に、「一部の〇〇はそうだが、全体はそうじゃない」という言説は、問題の解決自体にとってはマイナスとなりがちです。

ということで、できる限り不毛な論法は避けて、社会問題そのものの解決にエネルギーを注げるよう、良い議論を創っていけたら、と思います。

最後に。
開始1週間で2万2000人の方々から署名を頂きました。ものすごく嬉しいですし、本当に心から感謝したいです。しかし、目標の3万人にはまだ足りません。宜しければ下記の署名にご協力いただけたら、何よりの幸いです。
https://goo.gl/Xof6Sc


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編集部より:この記事は、認定NPO法人フローレンス代表理事、駒崎弘樹氏のブログ 2015年10月29日の記事「「ひとり親の貧困が問題だ」→「貧困じゃない人もいる。失礼だ」という論法の生み出すもの」を転載させていただきました(見出しはアゴラ編集部で改稿)。オリジナル原稿をお読みになりたい方は駒崎弘樹BLOGをご覧ください。