「反知性主義」に追いつめられる「戦後主流派」

2015年11月04日 10:43

■「反知性主義」はバカの代名詞?
ここところ、「安倍晋三的なるもの」を反知性主義と呼ぶキャンペーンが内田樹氏らを中心に(?)行われていて、安保法制賛成派は誰でももれなく「反知性主義」とするかの動きがあった。

そもそも「反知性主義」とは「インテリに対する懐疑」を示す言葉で、『反知性主義』の著者である森本あんり氏の言うように、(アメリカの事例を引いて使う以上は)必ずしもネガティブなだけの言葉ではない。

それを「バカの代名詞」の如く使う向きに、様々な指摘がなされている。
山形浩生氏「反知性主義3 Part 1: 内田編『日本の反知性主義』は編者のオレ様節が痛々しく浮いた、よじれた本。」
岩田温氏「宗教的情熱こそが「反知性主義」の原点である」


内田氏たちが、「反知性主義」を「バカ」「無知」の代名詞の如く使い、それも右派のみ対象にしたのは、元々の意味を知らないのか、敢えてなのか。安倍総理やその支持者を「反知性的である」と言いたいのは、安倍総理の出身大学等に対するマウンティングも大いにありそうなのだが、結局のところ「知性である俺たちが安保法案に反対しているのに一向に理解しようとしないのは反知性的だ」というミもフタもない本音なのだろう。

そもそも「反知性主義」を言うなら、内田氏が支持した学生団体SEALDsはどうなのか。感情に訴え「何が『憲法解釈の積み重ね』だ。憲法守れ! 戦争は嫌、死ぬのも殺すのも嫌に決まってる!」など、彼らが法案反対のために前面に押し出した一連の言動は、それを支持する周辺の「宗教的熱狂」の様相も含めて、まさに「反知性主義的」ではなかったか。

ところがここに、知性であり「戦後の主流派」とも言うべき大学教授や護憲派の憲法学者、朝日新聞、そして内田樹氏らが合流した揚句、相手側だけを「反知性主義=バカ」と非難したから、おかしなことになったのである。

しかし内田氏らが元々の意味を正しく理解し、右傾化と合わせてきちんと論じていれば、右傾化現象と、「正しい意味」での反知性主義は確かにつながるものと言えたはずだった。

■インテリを負かす漫画家とネットの登場
進歩的文化人(つまりインテリ)たちが戦後、主流として述べて来た歴史観や憲法観に対し、異を唱える人たちが出て来た。その論者の中には東大卒や大学教授もいるが、歴史や憲法の専門家ではない場合も多く、いわば「非主流派」による指摘だった。「主流に乗っかって歴史学(憲法学)を学べば、自虐史観に囚われた担当教授の教えを覆すことが出来ず、自虐史観の継承が行なわれていく」といった文脈は(それが実際そうなのかどうかはともかく)、右派的な歴史観が非主流である(あった)という実態をよくあらわしている。

左派は右派を「復古主義」「軍国主義への回帰」などと言ってきたが、右派的言説の広がりは、先のインタビューで森本氏が言っている「『今、主流になっている知性や理論をぶっ壊して次に進みたい』という、別の知性」に近い。

その意味で言えば、九〇年代の小林よしのり氏の登場も「反知性主義」の流れに位置づけられるだろう。頭でっかちのインテリを論破していく漫画家という構図が読者に支持されたのは、「インテリ相手によくぞ言った!」「俺もおかしいと思っていた!」という痛快さがあったからだ。そして多くの読者がその熱に「感染」した。

小林氏が当時「わしを疑え」と読者に述べたのは、朝日新聞や既存の歴史観、教科書的な倫理観、社会の「大勢」に逆行する姿を見せつけた上、そんな小林氏自身も含めて、「学者や新聞記者の書くことを鵜呑みにせず、さらにはわしの意見も鵜呑みにせず、自分の頭で考えよ」と言いたいがためであった。

現在、小林氏は「ネトウヨの生みの親」と呼ばれて憤慨しているが、いわゆる(左派が呼ぶところの)右傾化しているとされる人たち(なかでも三十代以上)で、「小林よしのりに一時も触れていない」人を探す方が難しいだろう(なにせ「ゴー宣」は百万部以上も売れていた。ただ左派にも読者は多く、その後、読者がどう育ったかまで作者に全責任を負え、とは言えないと思うが)。

二〇〇〇年代以降はネットというまさに平等で、貧者も使えるツールによって、右派的な言論に触れて「覚醒」する機会が増え、賛同者自身も発言権持ったことで、「右傾化」は進み、可視化した。非インテリの一素人が、活字媒体で活躍するインテリを批判出来るようになったし、その材料(専門書や過去の新聞からの引用なども、ともすれば原典に当たることなく)を手軽に入手できるようになった。

それによってさすがに逃げられなくなったのがインテリの巣窟・朝日新聞で、昨年ついに従軍慰安婦問題で誤報を認めることになった。

■右派は「朝日的戦後体制」に対する反体制
戦後の日本は「過去の日本については黒歴史として教えるべし」と抑えつけ過ぎたからこそ、別の歴史の描き方を知って「目覚めた」と感じる人が出て来たわけで、だから当然、行きすぎもある。「戦前真っ暗史観」を跳ね返すためとは言え、「日本軍は正義の軍隊論」といった、自虐史観の単なる裏返しであるだけ(に見えてしまう)話や、反動としての排外主義的表現が目立ってしまうのだ。

過激な表現は擁護できないが、一方でこれは右だけが悪いのではなく、「日本悪玉史観以外は認めない」「日の丸君が代も危ない」などとして異論を抑えつけ過ぎた左にも責任がある。朝日新聞や岩波など「反体制」を売りにしているメディアは、戦後七十年の間に自らが「主流派=打破されるべき体制」になってしまったことに全く気付いていない。現在、「右派」であると自認する人の多くは、実は戦後言論空間=朝日や岩波に対する「反体制」的スタンスなのだ。

そして、確かに安倍総理もその流れで出て来た人物だ。論理よりも「虐げられてきた(と感じている)人たちの心に訴える」かのような歴史教育や拉致問題に対する姿勢、朝日新聞批判などが評価されて、一部から熱烈な支持を得た。

このような流れが今まさに「右傾化」と呼ばれている現象であり、本来の意味に近い「反知性主義」の起こりと発展ではないかと思う。相手方をやり込めたいばっかりに「バカの代名詞」として誤用さえしなければ問題はなかったのだ。

竹内洋氏は「(これまでの日本において)強力な反知性主義がないことで、知性主義も練磨されることがなかった」と述べている。逆に言えば反知性主義からの知性批判が可視化されたことは、知性主義が練磨されるチャンスにもなり得るはずだった。

「戦後の主流派」たちの言動を見ていると、期待できそうにはないが……。

梶井 彩子

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