テロが当たり前の時代の『あたらしい正義』について

2015年11月18日 17:16

フランスのテロ事件は、今まで「その話は公的には黙殺することで現代社会を成り立たせていた」問題をすべて白日の下に晒しつつあるように思います。

ベイルートの死者は無視なのに、パリで死者が出たら全世界が大騒ぎするってどうなんだ?という話は、事件以前だってずっと「リアルに存在する大問題」でしたが、事件前にこんな話を堂々とフェイスブックで言い出したら「はいはい中二病」扱いで黙殺されていたようなことです。

それが今や、全世界的にホットな話題になり、”キャッチーでファッショナブルな範囲で”堂々と扱える内容になった。(余談ですが私は少年時代”にザ・イエローモンキー”というバンドが好きで、こういう問題を扱った彼らの有名な歌詞をネットで酷評されまくっていたのを見ていたので感慨深いものがあります)


また、「テロをする人間にはテロをする人間の正義(あるいは少なくとも”切実な事情”)がある」という話と、「テロリストをちょっとでも擁護することはそれ自体許されないことだ。たとえどんな事情があってもだ!」という立場には、どちらにもかなりの真実性が含まれているように思います。

正義が一元的なものではなくなり、いろんな正義があり、それぞれが必死にその正当性を主張している。その「主張」は、言葉によるものに収まらなくなり、デモならいいけどテロにすらなるようになっている。

こんな時代に、「正義」という言葉を私達はどう考えたらいいのでしょうか?

「正義なんてないんだ。単なる個々の利益同志のパワーゲームがあるだけなんだ!」という、勇ましいニヒリズムに入っていくことが「正解」なのでしょうか?

それとも、さらに細分化されていく「それぞれの正義」を、「もっと熱狂的に主張する小集団たち」に人類が分断されていく世界を、そのまま是認していくしかないのでしょうか?

・・・と、言う本をディスカバー21という出版社で今作ってる最中なんですが、そのメインメッセージとして、「メタ正義」みたいな発想が、今後重要になってくるんじゃないかと考えています。

「メタ」というのは、厳密に考えると難しいですが、日常的な用法の援用で言うと「一段抽象度を上げて物事を考える」・「俯瞰で見て全体像を捉える」というような時に使う言葉です。

「細分化された純粋な正義」がそれぞれに必死の主張をし、それが時に暴力にまでエスカレートしてしまう時代には、「個別の正義自体についてその是非について論争する正義論」ではなくて、「それぞれの個別に純粋な正義を、どう整合性を持って社会に取り込んでいくべきなのか」という、「それぞれの正義の扱い方」について真剣に考える必要が出てきている。

その「それぞれの個別的正義の扱い方の方法論」「メタ正義論」と呼んでも誤用ではないでしょう。

「メタ正義論」的な観点からこの現代の不幸を考えてみると、1つの希望めいたものも見えてくるように思います。

と、言うのは、このテロによって

「何はともあれ、非欧米諸国の現地現物の不幸が、欧米諸国側が提示する”揺るぎない正義の主張”への異議申し立ての手段を手に入れた」

という理解は、道義的問題とかいろんな難しさはありますが、「現実的にはそうなって」いる側面もあるからです。

このテロがなければ、「ベイルートで死んだのとパリで死んだのと価値が違うってどういうことなんだ」などという話題が人類規模で盛り上がるなんてことすらなかったわけですからね。

今後、「戦火」は止めようがないところもあるでしょう。とにかく形だけでも決着を付けなくちゃ収まらないという事情は、どれだけインテリが著書やブログで嘆いてみても世界の現実としてあるからです。

私たちは、それに無闇に反対して「自分だけ良い人ぶる」べきではない・・・と私個人は考えています。

しかし、それを認めた上で、じゃあ「良心」に何ができるのか・・・を問うならば、「ああ、人類はなぜかくも野蛮なのだろう?もっと仲良くできればいいのに!」と自分だけ聖人君子的に嘆いてみせる態度(いやいやあんただって”人類”だぜ!)よりも、もっと重要な「貢献」の道も開けるはずです。

それはつまり、「メタ正義」について考えることから始まります。

「メタ正義」論に、世界のインテリの注意を集中させていくことで、

・「非欧米諸国の現地現物からの異議申し立て」の内容は理解し、取り入れて、現代の欧米的システムの欠陥を補完する試みに昇華させていく

 だけでなく、その一方で

・「とりあえず人類みんなの(非欧米諸国も含めて)毎日の生活を支えている現状のシステムを、ネコソギに否定してかかるようなテロはやはり許されないことだという了解は崩さない」

という二点を片方だけでなくどっちもやりきる両面作戦が可能になるでしょう。

このプロセスの中で、「欧米的価値観の理想を諦めずに、欧米的価値観が絶対無誤謬のドグマ化して非欧米社会の現地現物の人間を抑圧しまくっている現実は回避しようとすること」に集中できるようになります。

というか、今や人類はこの「メタ正義」を考えないかぎり、「あらゆる1階建ての正義」そのものにニヒリスティックになっていく可能性があります。

「欧米的価値観がさらに無誤謬の前提で押し出しすぎると、世界の逆側に”欧米的価値観を丸ごと捨てようとする人々”」が生まれてしまうことになる。

大事なのは、このテロによって開かれた「逆側からのフィードバック回路」の情報を受け取りながら「理想」の実現を目指すことです。

私が子供の頃、私の母親は機械オンチが極まって、ビデオテープをデッキに逆向きに入れてぶっ壊したことがあります。

いやいや、入れ始めたらガツッってぶつかって、入らんってわかるやろ!・・・と子供ごころに思いましたし、父親は呆れてモノも言えないという様子でした。

逆向きにテープを入れようとすれば、あちこちにぶつかってる「フィードバック情報」が帰ってきます。それにちゃんと感性が開かれていれば、「あ、逆やったわ」となって向きを変えてスムーズに入れられます。

現代の欧米社会の理想は、この「無理矢理逆向きにテープを突っ込んだウチの母親」のように、「現地現物からのフィードバック回路」が遮断されたまま独善的な理想だけを押し付けている部分があるのではないでしょうか。

そういう風に考え始めた時に、我々「理想を奉じる側」の人間がどうしても考えるべき点があります。

数日前に、この問題について軽い問題提起のブログをあげました。

ネットに文章上げるのが久々だったこともあって、短くまとめすぎて論旨が混乱してしまった感じもなくはないですが、その中に引用した、現在製作中の本からの挿絵↓には結構な反響がありました。

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この「絵」にあらわれているような問題を、いかに「多くの人間の責任」で解決するかが、「それをやらないと理想を丸ごと捨てることになる」時代に来ているわけです。

アゴラでは文字数限界が来ているので、分割掲載しています。次回はこの話をさらに掘り下げますが、一気読みしたい場合は私のブログでどうぞ→http://keizokuramoto.hatenablog.com/entry/2015/11/18/171347

倉本圭造
経済思想家・経営コンサルタント
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