外務省は反省すべし


井本省吾さんが12月21日付の記事(慰安婦問題の好転)と12月24日の記事(宮家邦彦さんの「日本の敵」批判)で、外務省の問題点を指摘しておられるが、私もほぼ同じ意見だ。しかし、ここで気になるのは、外務省の内部に「過去の事例を常に再吟味し、反省すべき点があれば反省する」という文化があるのかどうかという事だ。

外務省に限らず、官庁のやり方は、「官僚主義」という言葉でしばしば批判の対象となっている。「前例にこだわる」「杓子定規」「事なかれ主義」「上から目線」「機敏さに欠ける」等々がよく指摘されている事だ。私は常日頃「もし自分が官僚だったらどうするか」と考える癖をつけているので、どちらかというと官僚の皆さんには同情的な方だが、それでも本質的なところで気になる事は多い。

外務官僚の立場と理念はよく理解している積りだが…

外務省の場合は特にプロ意識が強いので、「素人には外交の難しさはわからない」と、外部の批判を切り捨ててしまう事が多いのではないかというのが、私の最も気になるところだ。外務省にはかつては「軍部」という「天敵」がいたし、国民大衆やそれに迎合するジャーナリズムは常に内弁慶で、外国に対してはすぐに居丈高になる傾向があるので、外務官僚としては「そうでもしないとやっていけない」という気持ちにもなるだろうが、それでは困る。

古代中国の戦国時代の縦横家の業績を紐解くまでもなく、古来「外交手腕」というものは「度胸」とほぼ同義語だ。それなりの「手練手管」も勿論必要だが、ここ一番という時には、常識を超えたアプローチをしないと局面を打開出来ない。しかし、空振りすれば惨めな結果を招くので、相当な「度胸」がないとそういう事は出来ない。戦国時代なら簡単に命を失う覚悟が常に必要だ。

軍司令官でも政治家でも事業家でもない官僚に、そんな事を期待するのは元々無理だとも言える。しかし、官僚とて、自分達には直接出来ない事でも、政治家にアドバイスするぐらいは出来る筈だ。つまり、心の底には「縦横家の魂」が備わっている事が必要だ。

「官僚主義」を悪く語る言葉は前述の通りだが、その良い面を表す言葉としては「冷静」「分析的」「オーソドックス」「忍耐強い」等々がある。多くの外務官僚は「外交に勝者はない(あってはならない)」「如何なる場合でも破局は避ける」を骨の髄まで刻んでいるだろうし、それを「プロの証し」として、誇りに思ってもいるだろう。それはそれで良い。しかし…

必要とされる「反省」と「闘志」

しかし、ここに二つの問題が隠されている。一つは「妥協」とか「落とし所」とかいったものを、ダイナミックなものと捉えられず、平板にしか考えていないのではないかという事。(これについては後で述べる。)そして、もう一つは、これはあらゆる組織に共通する事だが、身内に甘くなり、「過去に戻って反省する」事が等閑にされているのではないかという事だ。

宮家さんの本を批判している井本さんの記事にもあるように、外務省には「国際社会(多数派)の常識には逆らわない」という一貫した姿勢があり、それはそれで良いが、問題は「その常識が間違っているなら、正していく」という闘志に欠ける事だ。言うまでもなく、「闘志なき者は何も勝ち取れない」。つまり「妥当な落とし所すら勝ち取れない」という事だ。

国際的な常識とは何かを知る以上に、「何故それが国際的な常識になったのか」を理解する事が必要だ。多くの場合、それは、こちら側がぼんやりしている間に相手方が仕掛けたからだ。中国や韓国がこの点非常にアグレッシブであるのに対し、日本は「紳士的」に過ぎ、ずばり言えば「怠慢」だ。極言するなら、「まともに仕事をしてこなかった」という事だ。

それに気がつけばやるべき事は明らかだ。本当に手遅れなら、諦めて、これまでの担当者を左遷する。(きつい事を言うようだが、そこまでやらねば過去の反省は生かされない。)巻き返しのチャンスが少しでもあるなら、勿論、全力を挙げて巻き返す。それだけだ。

慰安婦問題は試金石

慰安婦問題について言うなら、どう考えてみても、相手方の言い分には事実の裏付けがない上に論理的にも破綻しているので、勿論「手遅れではない」と考えるべきだ。

遅ればせながら、「何が事実で何が事実でないか」を八方の色々な階層の人達に丁寧に説明し、「日本は何事にも誠意を尽くして対応したいが、虚構をベースとした申立には対応できない事を理解して欲しい」と訴えれば良いのだ。

そして、この場合、居丈高な人や官僚的(権威主義的)な人は表に出さず、国際社会に受け入れられ易い誠実な人達(例えば、井本さんの記事でも紹介されている、大阪市大の山下英次先生や、「なでしこアクション」の山本優美子さんのような人)に、礼を尽くしてこの仕事を依頼すべきだ。

残念ながら、慰安婦問題の場合は、日本人の自称「人権派弁護士」や自称「進歩的ジャーナリスト」が虚構を広めた張本人だという常軌を逸した事実がある。普通の外国人は「まさか、こういう人達が自国を貶める『嘘』を広めるような様な事はある筈がない」と考えるのが普通だから、大変な忍耐力を持って説明を繰り返す必要がある。(頭から相手にされないリスクを回避する為には、「何故彼等がこのような非常識な行動に走ったのか」を丁寧に解説する事も必要。)だからこそ、外務官僚には、正義感に裏打ちされた「闘志」が必要となるのだ。

「妥協」に必要な戦略思考

なお、外交に「妥協」は不可欠だが、外交交渉の当事者はお互いに「国民に迎合せねばならない政治家の思惑」を背負っているので、下手な妥協はできない。だから、「どこで妥協し、どこはあくまで突っ張るか」が一番の考えどころになる。そして、この点については、自国の事情だけではなく、相手側の事情も考慮に入れる必要がある。

これは蛇足だが、「全てにつき足して二で割るような妥協を狙う」のは「全てについて突っ張る」のと同じぐらいに拙劣な外交交渉だ。「ここだけは絶対に妥協しない」という所をはっきりさせて、それを相手方にも知らしめる事が必要だ。最終決定権限を持つ政治家が「いい人」である場合は却って難しいが、「強硬派」として相手側から批判され警戒されている場合は、この勘所を抑えれば、「絶対に譲れないところ」は先ず確実に勝ち得る事が出来るだろう。

松本 徹三