なぜ謝罪はここまで増えるのか?

ベッキー、SMAP、横流しのダイコーに教科書出版会社、バス運行会社…ごく最近の謝罪例だけでもこれぐらいすぐ思い浮かびます。甘利大臣も釈明が謝罪に変るのでしょうか?多くは「脇が甘い」結果が生んだ失態で、深々と頭を下げ、フラッシュとシャッターの音が象徴的なシーンであります。

海外から見る私としては「いい加減にしてほしい!」と言いたくなります。

日本はこんなに人に頭を下げ続けなくてはいけないほどの恥ずかしい国だったのでしょうか?まじめで一生懸命働き、人に迷惑をかけない筈じゃなかったのでしょうか?私は小さい時からそういう国だ、と習っていました。が、経済がどれだけ成熟しても人間は成熟していないということでしょうか?

少なくとも海外ではこのようなシーンはまずお見かけすることはありません。勿論、非を認めない世界(=裁判など第三者の判定を仰ぐスタイル)との相違はあるもののそれにしてもこのところの日本の謝罪は尋常なペースではありません。日本に在住の方はこれをテレビのニュース番組でみてどう思っているのでしょうか?もはや、当たり前の行為として日本の謝罪文化として受け入れてしまったのでしょうか?そうだとしたらとんでもなく不思議な国になりつつある気がします。

私は謝罪する状況を作る人間の弱さが気になります。特に問題視すべき事件は教科書事件だと思います。とにかく対象者が多すぎます。教科書会社が12社、図書券や現金を貰った先生は4000人と言われています。先生の大半は公務員ですから賄賂の贈収賄であって本来なら全員クビになりかねません。が、この問題は今後、すっーと収まる気がしています。日教組あたりがマスコミを抑え込むとみているからです。それぐらい見せたくないシリアスな問題ともいえ、ルール通りに行けば日本から先生がいなくなってしまうぐらいの勢いなのです。

日本的謝罪を求めるならば、学校側、つまり収賄された側の代表者の弁明がまだない気がします。表に表れないもう一人の代表者にSMAPの飯島三智マネージャーも上げられると思います。SMAPにしても教科書問題にしても本来のトラブルを起こした当事者に代わり本来謝罪をすべきかどうかわからないSMAP本人たちや文科省が弁明、謝罪するという奇妙なスタイルができつつあります。謝罪文化は組織のトップないし顔役が頭を下げるという仕組みができているともいえ、この独特の文化のフレーバーとも言えそうです。また、「謝罪のコンサルタント」もいる時代ですから驚きです。

例えば政治家の秘書が賄賂や政治資金規正法の問題を起こしても謝罪するのは政治家本人です。これはその顔役が頭を下げることで「水に流せ」と言わんばかりのような気がします。家父長制度の典型とも言えそうです。見る人たちはそれで溜飲が下がるのでしょうか?これを繰り返していても根本的日本人の弱さを解決できないように思えます。

謝罪が増えるその原因は世の中が複雑化、情報化、コンプライアンス、規制、ルール、監視体制など正直「住みにくい」「やりにくい」世の中になったことがあるかもしれません。進化する世の中に対して全員が全員、ついて行っているわけではありません。細かいルールなど正直、フォローできないのです。その為、「多分、悪いことかも…」と思いながらも「まぁ、いいか」という気持ちになるのではないでしょうか?また、完全競争下にある業界ではズルをしてでも生き残りを図るという苦しい実情もありそうです。

朝日新聞の報道によると北海道、登別の温泉宿で厨房の皿洗い場を風呂にして浸かる高校生アルバイトの写真が拡散したようです。これも以前からある悪さの典型ですが、ツィッターがなければばれることはなかった、ではなくてツィッターなりYoutubeがあるからこういう「目立つこと」をして見せびらかせる行為をするわけです。

民泊について緩和策が出てきそうな感じです。一定の細かいルールが設定されるはずですが全ての民泊に興味がある人にこのルールを周知、徹底させることが出来るかといえば100%無理だと今から断言しておきます。必ず、トラブルが発生し、そのトラブルに対して役人が頭を下げる時が来るはずです。

これらは日本人の常識感がややあいまいになりつつあることも原因かもしれません。それぐらい社会は急速に変化し価値観が世代と共に変わってきています。このギャップが埋められないのかもしれません。先行き、一抹の不安を抱くのは私だけでしょうか?

では今日はこのぐらいで。

岡本裕明 ブログ 外から見る日本、見られる日本人 1月24日付より